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高校3年生の時だった。わたしは熱心に同人誌活動をしていた。同人誌とは、小説やイラスト、マンガを本として販売する活動のことだ。オリジナル作品を書く一次創作と、既成の作品を基に書く二次創作がある。わたしは仲間とマンガやアニメの二次創作を楽しんでいた。
わたしはこのサークルでは、ドラマとマンガ、アニメの評論とエッセイを担当していた。
そんな時だった。
「ねぇ、Aちゃん。後輩が新しい二次創作の同人誌サークル作ったんだ!入らない?」
誘ってきたのは隣のクラスのS。高校2年生の時に転入してきた、イラストの上手い女子だ。黒縁メガネがトレードマークの真面目で明るい印象の子だった。
「何の二次サークル?」
「Aちゃんの好きなアレだよ」
「うそ!?入る!」
アレとは、当時若い世代に人気だったドラマの二次創作だ。時代劇でありながら、テンポの良さとスピーディーなストーリー展開、斬新な映像美と積極的な若手俳優の起用などが話題になったドラマだ。男性だけでなく、10代から上の世代までの幅広い女性ファンからも人気があった。
この当時は二次創作の主流は、男性同士の恋愛を描くBL(ボーイズラブ)であった。この時期はBL作品という言い方は一般的ではなく、「やおい」と呼称されていた。マンガと小説の一次創作の同人誌サークルも、もちろんあった。ただ、同人誌即売会では、一次創作の同人誌はほとんど売れないことは、常識だった。どれだけイラストや文章が素晴らしくても、無名の作者の作品は大量に売れ残ってしまう。そこで対策として作者たちは、二次創作のBL作品を量産した。そしてそこから得た収益を、一次創作の同人誌の制作費につぎ込むことが一般的であった。
「Sちゃん、わたしあんまりやおいは書けないんだけど、大丈夫かな?」
すぐさまSの勧誘に飛びつたものの、当時のそういった事情から、少しだけ不安もあった。
「平気だよ。イラストとか小説とか全然書けなくても、会報だけでも、読めばいいじゃん?」
「ううん……。それは、そうだけど……」
「どうしても作品を書きたいなら、真面目なやつでもいいよ。エッセイとかさ評論とかでもさ。もう一度詳しく、聞いといてあげるからさあ」
Sはかなり積極的に誘ってきた。この同人誌サークルには立ち上げから自分も参加しているから安心だ、とも言っていた。後輩たちは全員この高校の1年生の女子だという。
「1年生の女子と、どうやって知り合ったの?」
「ああ、そんなの同人誌活動してたら自然にできるよ。Aちゃんも今度一緒にコミケに行こうよ!」
そんなものかな?と、わたしはこの時少し不思議に思っていた。Aは転入生ということもあってか、高校の部活動やクラブ、同好会には一切参加していなかった。現在のようにネットやSNSが発達しているわけでもない。Sが同じ高校とはいえ、下級生たちと知り合う接点がまったく思い当たらなかったからだ。
「コミケにあんまり来ないAちゃんにはわからないんだろうけど、すっごいくいい雰囲気だよ。趣味もおんなじだから、すぐに仲間がいっぱいできるよ!!」
Sはそういって陽気に笑った。わたしは記事の執筆は得意だったが、同人誌の販売や即売会の会場の設営などは経験がなかった。
「そういう苦労もしなきゃダメだよ。同人誌活動の醍醐味ってやつだよね。だから、新しいサークルにも入りなよ」
わたしはSに説得される形で、しぶしぶうなずいた。
翌日、Sはわたしのクラスに来ると早速新しいサークルの会報と同人誌のサンプルを持ってきてくれた。会報は両面コピーの小冊子だったが、同人誌のほうはオフセット印刷でイラスト数ページはカラー印刷だった。サイズも大学ノートサイズのB5版からテキストサイズのA4版まで幅広く揃っている。
これはかなりお金がかかっているな、とひと目見てわかった。サークルの規模と収益にもよるが、当時は制作費が高額なオフセット印刷は学生には高嶺の花であった。両面コピーを自分たちで手間ひまかけて制作するのとは違い、オフセット印刷は印刷・製本までを一括して印刷所に委託することが一般的だったからだ。だからオフセット印刷の同人誌を定期的に出せるのは、職業に就いた社会人作家がほとんどだった。
「会費がすごく高いんじゃない?」
「そんなことないよ!このくらい当たり前の金額じゃん?」
心配するわたしに、Sは満面に笑みを浮かべて説明してくれた。
確かに彼女の説明どうりならば、それほど高くはない。
入会金と毎月の会費がかかるが、サンプルの同人誌と入会特典も充実。今活動しているサークルと掛け持ちでも、何とか支払える金額だった。
わたしはSと一緒に1年生のクラスを訪ねた。メンバーは女子4人。会費等は小為替を郵送で、とのことだ。
わたしは入会書に記入し、翌月から会報が自宅に届くようにした。
それから数ヶ月が過ぎ、卒業間近になった。その頃には最初のサークルは活動休止になり、Sが誘ったサークルだけに参加していた。
「Sちゃん、これ届けておいて」
「うん、いいよー!」
わたしはSに、封筒に入れた会費を手渡した。これまでは直接会費を手渡していたが、高校を卒業したらなかなかメンバーには会えない。それに1年生のクラスに3年生のわたしが行くと、煙たがられているのを何となく感じていた。
「サークルの部会の時に、あの子たちに渡しとくね!」
Sは面倒くさがることもなく、屈託なく笑った。
「うん、頼むね!」
わたしはこれで、数ヶ月分の会費を先払いしたつもりだった。
その後、高校を卒業してわたしは国立大学を目指して浪人していた。本当は同人誌活動は辞めて受験勉強に集中すべきなのだが、執筆の楽しさからあきらめ切れなかった。受験勉強の傍ら、それまでと変わらず締切までに原稿を書き上げ、サークルに送った。
サークルからは、わたしが書いた原稿が掲載された同人誌と会報が、欠かさず郵送されていた。
その頃のことだ。
「会費がまだなので送ってください」
「え?」
サークルから唐突に、催促の手紙が届いたのだ。
「Sちゃんはまだ、わたしが預けたお金を渡していないのかな?」
Sに会費を預けて3ヶ月以上も経っていた。
わたしは狐につままれたような気になってSに確認の電話をした。
「はぁい?」
電話に出たSは別人のようだった。声は暗く低くく、口数が極端に少ない。
あまりに声のトーンが違うので、一瞬間違い電話をしたと思ったくらいだ。
「サークルから催促の手紙きたけど、Sちゃんあのお金払ってくれた?」
「……」
Sは黙ったまま、答えない。
しばらくSの返事を待ったが、彼女は押し黙ったまま時間だけが過ぎる。
「忘れてたなら、ちゃんと払って!わたし困ってるから」
「わかった!」
Sは投げつけるように叫ぶと、また黙り込む。
「じゃあ、頼むね」
わたしは不快な気分で電話を切った。
「何だろうあの人?二重人格?」
Sが会費を払っていなかったこともだが、わたしは彼女の豹変ぶりが不気味だった。
学校でのSは明るく陽気で、よくしゃべり笑った。友達は多いほうではなかったが、とにかく明るい。イラストの腕前も一流で、アナログで描いてくれた誕生日プレゼントの素晴らしいイラストは、わたしの宝物だった。
それなのに、あの地の底を這うような陰気なSの声が、人懐っこい彼女のイメージとまったく重ならない。
「学校じゃ、明るく振る舞ってたのかな?」
Sは両親の離婚後、東京から引っ越して母親とともに地元の実家で暮らしていた。母親と祖父の3人暮らしだと言っていたが、Sは祖父が嫌いだとも話していた。
「おじいちゃんたら、あたしに短大に行けとか言うんだよ!?あたしは高校卒業したら、すぐ働きたいのに!あたしは早くお金が欲しいんだよ!!」
Sは興奮して友人たちに、不満を訴えていた。せっかくおじいさんが進学させてくれると言ってくれているんだから、話を聞くだけきいてみたらとわたしたちが勧めても、Sは一切耳を貸さなかった。
母親もあまり良い人ではないらしく、わたしがSにあげた誕生日プレゼントが気にいらないと文句を言っていたらしい。
「なにこの色?あんたの友達、なにくれたわけ?」
「ペンケース?ずいぶん地味なデザインね?ダサ!!」
お母さんたらそんなこと言ったんだよと、Sは笑いながらわたしに話したが、娘の友達のプレゼントをそこまで悪く言う大人がかなり嫌だった。
わたしはSの様子が気になりながらも、サークル宛に手紙を書いた。Sに数ヶ月分の会費を渡していること、Sからその会費を受け取って欲しいと詳しく便せんに何枚も書き送った。だからこの問題はそこで解決したと思っていたのだ。
だが1ヶ月後、また自宅に催促の郵便物が届いた。
「Aさんの会費だから、Aさんが払ってください」
今回はハガキで、Sから事情を聞いたとは一切書かれていない。あくまでわたしに支払えの一点張りだ。
「Sちゃんはまだ、わたしのお金を払ってないんだ」
わたしは腹が立った。Sに電話をかけ、努めて冷静に話す。
「何で払ってくれないの?わたし何回も催促されて、本当に困ってるんだよ」
「わかった!」
Sは相変わらず自分からはほとんど話さず、何を考えているかわからない。前回と同じく、短く叫ぶ黙り込むを繰り返し、まったく要領を得ない。
「ちゃんと払ってよ!」
「わかった!」
同じ内容の会話を延々と繰り返し、わたしは電話を切った。
その後もSはわたしが預けた会費を、サークルに払わなかったらしい。2週間に1度はサークルのメンバーから催促のハガキが来る。
いくらSに確認しろと返事をしても、Sのことには一切触れず、ひたすらわたしに支払えと迫る。その度にわたしはSに電話するのだが、彼女はわかったと叫ぶだけだ。
サークルからは「払わないなら、同人誌と会報は送りません」と脅しめいたハガキも来る。
「何でこの人たち、Sに聞こうとしないのかな?」
この頃にはわたしはSが、預けたお金を着服したと確信していた。
だがなぜあの後輩達は、Sに直接話を聞こうとしないのか?先輩のSに遠慮しているのか?だがそれにしては、わたしにはズケズケと平気で文句を言ってくる。
現在のような便利なメールとメッセージアプリはない。当時は主なコミュニケーションツールは電話と郵便だったから、私のもどかしさは計り知れなかった。
「たった4000円だけど、二重に払ったりしない!こんなの、悔しいもん!!」
Sは無論だが、サークルのメンバーにも激しい怒りを覚えた。4000円は高校生の私には大金だった。
その後も催促のハガキは何回も来た。
わたしはSに電話することはなく、ハガキにも返信しなかった。会報は途絶え、催促のハガキもいつしか来なくなった。
大人になった今は確信している。
Sとサークル1年生女子4人は、詐欺罪の共犯だったのだ。
そう考えれば、サークルのメンバーが誰一人として、Sを問いたださなかったことも説明がつく。
Sがいつわたしからお金を騙し取ろうと思いついたのかは、わからない。わたしをサークルに誘った時点か、封筒の中身が現金だと気づいた時点か。
わたしが催促されるままに、サークルに二重払いをするとSは本気で思っていたのか?
多分それはない。
Sは4000円を使い込んだ後、他の4人に言った。
「このお金はあたしがもらうから、あんた達はAから、まだもらっていないとか言って小為替を送ってもらいなよ。Aはサークル辞めたくないから、きっとまた払うよ」
Sはわたしがあのドラマの大ファンだったことを友人関係から、熟知していた。
あるいは、最初の4000円とウソの催促をして得た4000円、合計8000円を5人で山分けする計画だったのかもしれない。
金額は小さいが、成功していたらその後もSたち5人は、もっともらしい理屈をつけてわたしへの要求をエスカレートさせて行ったに違いない。
わたしの失敗はただ一つ。お金を他人に預けたことだ。
こんな当たり前のことが18才のわたしには分からなかった。
友達を信じて、相手にお金を渡してくれると疑いもしなかった。
それがわたしの単純で深刻な失敗だった。
だから現在はこうしている。
①お金のやり取りは仲介者を立てない
②領収書はその場でもらう
この二つを実行するだけで、嫌な事件は十分防げている。
「お金は分別を失わせる」
とは、アガサ・クリスティが創作した名探偵ミス・マープルのセリフだ。
分別を失ったSと4人の女たちが今どうなっているのか、私は知らない。
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