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最後にそう付け加えて、茉莉香はいつものように華やかに笑った。
──遠い世界だと思っていた。
あのパン屋のテラス席で、多恵たちと噂話に興じたあの場所が、この世界の全てなのだと思っていた。
ずっと心に違和感を抱えながら、そして茉莉香の姿を遠くに見ながら、いつかは、なんてとりとめもなく夢を見ていた。
茉莉香のことだって、お高くとまって自分のことにしか興味がない人、そんなふうに思っていた。正直なところ、苦手だった。
でも裏を返せば、本当は羨ましかったんだとわかる。憧れていたんだ。そこに行きたかったんだ。
今、私はかつて遠巻きにしか見られなかったその場所にいるんだ、友梨はそう思う。
茉莉香の口から不倫の噂の真相を聞くだなんて、あの頃の自分には想像もできなかった。まるで、階段を上るように……。その場所からでしか見えない景色がある。
「そうそう、うちのチームってまだポジションが決まってないでしょ? コーチは公式戦までに少し固めたいって話してたから、私なりに案を出してみようと思って。まぁ采配は全部コーチにお任せすることになるんだけど、所感くらいは伝えてもいいと思うのよね。もちろん、悠心くんはディフェンダーでね」
それから茉莉香はゴールキーパーに相応しい人材がまだいないことを嘆きながら、手帳を開いて友梨に見せた。
コートを模した四角い線の中に、いくつかの丸印が書かれ、その横に名前が書いてある。ワールドカップの時期などにテレビでよく解説されるような図のなかに悠心の名前もあって、それだけで少し嬉しくなる。
友梨にはポジションのことなどわからないが、折角茉莉香が考えたのだから、と手帳の文字を目で追い、気が付いた。
「あれ? 吉成くんの名前が抜けてるんじゃない? ほら、涼子さんの」
友梨が指摘すると、茉莉香は困ったような苦々しい顔をした。
「……友梨さん、知らなかった? 吉成くん、今学校もお休みしてるみたい。サッカーにもずっと顔を出していないし」
「え?」
「二軍落ちしたことがそんなにショックだったのかな。でもたった一度の挫折くらいでもったいない。これからいくらだって挽回できるはずなのに」
──知らなかった。悠心が一軍へ昇格した際、吉成が二軍へ降格していただなんて。
友梨が悠心の活躍を喜んでいたのと同じ頃、吉成の母親の涼子はきっと胸を痛めていたことだろう。吉成も、学校まで休んでしまうほどだとは。
友梨が表情を曇らせると、茉莉香がたしなめるように言う。
「友梨さん、気にしちゃダメ。吉成くんが降格したのが悠心くんのせいだなんてことは絶対にないんだから。みんな平等に機会が与えられているなかで、誰かが上がって誰かが落ちるなんて当たり前だもん。そのことをどう捉えるかは本人次第なの。そこから這い上がれるかどうかだって、本人の頑張り次第」
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