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プロローグ
やらなきゃ。
それは、今日なのだ。
何かに背中を押されるように、彼女は足を一歩踏み出した。つま先が地面に突っかかりつまずく。慌てて体勢を整え、大きく息を吸って吐く。
なんて馬鹿げたことを。心のどこかで響く声。馬鹿だよ、あんたは。大馬鹿だ。
わかってる。でも許せないことって、あるでしょ。どうしても許せないこと、一生のうちに何度かは。いや、たった一度かもしれない。それが今なんだ。
自分ひとりの問題ならば、もしかしたら許せたのかもしれない。時が解決したかもしれない。
しかし、彼女にはどうしても守ってやらなければならないものがある。
なんて気持ちよく晴れた空だろう。今日という日に到底ふさわしいと思えない青空。ちぎれて所在なげに浮かんだ白い雲が、まるで彼女のはぐれた心を示しているかのようだった。
人工芝の鮮やかなグリーンが、白い陽光を発散する。歓声が大きくなる。
四角い薄緑色のサッカーコートには、真っ白なユニホームを着た小さな背中たち。懸命にボールを追いかけ、走り回る。
深紅のユニホームを着た相手選手をかわし、ゴールへ突き進んでいく。背番号は10番。
幾度となく、目で追った背中。時に頼もしく、憧れ、そして誰よりも恨めしい背中。
ボールがゴール手前まで運ばれた時、唐突に前半終了のホイッスルが鳴り響いた。観客席から漏れる嘆息は、もう彼女の耳には届かない。
コートのすぐ脇に立っていた彼女は、ホイッスルを合図に人工芝へと足を踏み入れた。思っていたよりも柔らかな踏み心地だな、と思う。その時にはもう、頭の中はクリアになっていた。ここまできて、やらない理由がなかった。
右手に握りしめていたカッターナイフのスライダーを、親指で押し出す。カチカチと乾いた音がまるで他人事のように耳に響いた。
真っ直ぐにコートを突っ切る。足取りはゆっくりと落ち着いていた。
彼女がコート内を歩くと、いぶかしげに審判やコーチが視線を泳がせる。構わず彼女は進む。ハーフタイムのため、コートを出ようとしていた白い背中に追いつく。10、目の前の数字を目がけて、腕を振り上げた。カッターナイフを立て、突く。
走り寄るコーチの焦ったような形相も、事を悟った観客たちの悲鳴も、恐怖に顔を引きつらせた目の前の幼い顔も、何もかもが不器用なアニメーションのようにガタガタと動いて時を割る。
スノードームのような静けさが降りてきたと思った瞬間、彼女は強い力で地面に押さえつけられた。カッターを握ったままの右手を、誰かの足が踏みつける。
やった、やったよ。
だからもう、これでおあいこ。
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