風鳴の堀

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 もう随分前に埋め立てられてしまったが、そこには昔、深い堀があった。  魚も沢山泳いでいて、昼には釣りを楽しむ人で賑わうほどだったが、日が暮れる前には、皆急いで帰っていくものだった。というのも、その堀には、曰くがあったためだ。  その堀には、身投げをする人が多かった。その霊が、夜な夜な姿を現して手招きをするというのだ。それに見入られてしまうと、見入られた人もまた、身投げをしてしまうという。  夕暮れ時になると、その堀にはよく強い風が吹いた。ぴゅうぴゅうと高い音が鳴る。その音がし出すと、皆いそいそと帰りだすわけだ。それはただの風の音に他ならないのだが、村の人たちの間では、身投げした霊の苦し気な呼吸が、風となって追いかけてくるのだと噂になっていた。  それでここは、「風鳴の堀」と呼ばれていた。  ある夜のことだった。  町に商売に出かけていた商人の男が、堀の傍を通りかかった。その夜も、強い風が高い音を立てて吹いている。  商人も噂を知らないわけではなかったので、足早にその場を去ろうとする。家で待つ幼い子供と妻のことを思いだし、夕飯はなんだろうと考え、これから浸かる風呂に思いを馳せて、気を紛らわせる。  ぴゅー、ぴゅー……  きゅー、きゅー……  風の音は次第に、猫の鳴き声のような音に変わる。  ぴゅー、ぴゅー……  きゅー、きゅー……  商人はそのとき気が付いた。風の音の中で、明らかに、風とは違う音が鳴っている。  ぴゅー、ぴゅー……  きゅー、きゅー……  きゃー、きゃー……  それはまるで、女子(おなご)のような、高い声のようだった。  きゃあああああ! きゃあああああ!  そのとき、辺りに甲高い絶叫が響き渡った。商人は堪らず駆け出した。  きゃあああああ!  お父ちゃあああああん! お母ちゃあああああん!  風の音などではない! その明らかな叫び声は、彼の背後から吹く風に乗り、商人を追いかけるように迫ってくる! 「あああああ! うわあああああ!」  それに重なるように、男の絶叫が響いた。商人自身の声だった。背後の声を打ち消さんと、彼は無意識に声を上げていた。  家に着くまで全速力で走って、勢いよく玄関を開けると、夕飯の支度をしていた妻が目を丸くしていた。 「どうしたんだい、そんなに慌てて」 「で、出たんだよ、風鳴の堀! 女の声が、俺を追いかけてきて!」 「何言ってんの、あれは風の音だろ? 噂に惑わされすぎだよ。『幽霊の正体見たり枯れ尾花』って言うじゃないか」  妻の返答に、商人は段々と落ち着きを取り戻していった。  脱力したように玄関に座り込んだ時、妻が言った。 「あれ? 平五郎はどうしたんだい?」 「え?」 「お前さんを堀のところまで迎えに行くって言ってたよ。すれ違ったのかねえ」  そのとき、商人の耳に、堀で聞こえた甲高い絶叫が、再び響き始めていた。 ――了。
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