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人生何があるか分からない。
自分には全く縁のない世界だと思っていたのに、突如、それはやってくる。
「わたしが付き人?」
色んな事に追い詰められて退職してから3ヶ月。
ようやく普通の生活ができるようになったわたしの元へ、叔母が再就職の話を持ってやって来た。
「そうなの!付き人って言ってもマネージャー?みたいな?仕事の話は本人に直接行くらしいから、スケジュール管理と現場への送迎、チケットの手配、衣装の管理、あとは何て言ってたかな?まぁとにかく、小間使いがほしいってことよね」
「えぇ……」
早口で一気にしゃべって、わたしの反応なんてお構いなしの叔母が、出したお茶を忙しなく口にして続ける。
「華だって、今から就職先探すよりも、紹介されたとこに行く方が手間が省けるじゃない。お姉ちゃんも心配してるんだし、一日でも早いうちにちゃんとした仕事に就けた方が良いでしょ?小間使いでも何でもやってみれば?しかも雇い主はあの崎本大樹よ?」
「はぁ……」
崎本大樹。
名前は知っている。
日本の有名なピアニストだ。
才能に恵まれながらチャンスには恵まれず、ようやく名前が世間に知れたのは1年程前だと、テレビでやっていたのをたまたま見かけたことがある。
「わたしの大学の先輩の友達の親戚の息子さんらしくて、わたしのとこまで話が回ってきたの」
もはや他人じゃん……
そう口を挟む暇さえ与えて貰えずに、勢いの止まらない叔母が続ける。
「これは華にとってもチャンスじゃない?もしかしてもしかすると、仕事と恋愛両方手に入るかも知れないのよ?」
「はぁ……」
「あんなお人形さんみたいな綺麗な男の子のお世話が出来るのよ?ロマンスが始まる予感しかしないじゃない」
「男の子って……」
確か、わたしとさほど年齢が変わらなかったと思う。
叔母の言う通り、神からの贈り物と言われる程、崎本大樹のビジュアルは完璧だったけども、わたしの様な平凡な人間からすれば、逆にピンと来ない。
バツがふたつついても恋愛に全力をかけられる体質の叔母が、目をキラキラさせてわたしに詰め寄ってくる。
「先方にはもう話を通してあるから、これ、連絡先ね」
「え?」
「仕事始められる日にちを教えてほしいらしいわ。ちゃんとメールするのよ?お相手に失礼のないようにね?」
そう言って、残りのお茶をまた忙しなく飲み干すと、時計を確認して慌てた様子で立ち上がった。
「これから、わたしデートなのよ。見送りはいらないから」
「ちょっと待って!わたしまだやるって……」
こちらの話を聞く様子のない叔母を慌てて引き止めたのに、
「やるかやらないかの選択肢は、華にはないのよ?やるの。新しい世界に飛び込んでみなさい」
「そんな……」
「じゃぁね」
わたしの言葉を遮って、数々の男を落として来たと言う叔母自慢の笑顔を向けられる。
嵐のようにやってきて、あっという間にいなくなった叔母の残したメモが、リビングのテーブルに置かれていた。
それを見て、ひとつため息がこぼれる。
やっと朝に起きて、三食食べて、家の事をして、夜が来たら眠れる生活に戻ってきたと言うのに、わたしにピアニストの世話なんて務まるんだろうか……
心配はそれだけじゃない……
また、食事が取れなくなったら?
明日が来る憂鬱で眠れなくなったら?
何も考えられない、動く気力すらない日々に戻ってしまうのが怖かった。
やっぱり直接断ろう……
そう思ってスマホを手にし、書かれた番号に電話をかけた。
メールしてって言ってたのに、まずかったかな……と思いつつ、既に呼び出しが始まってしまったので切るわけにいかず、相手が出るのを待っていると
『……はい』
少し掠れた声の男性が出た。
「あ、あの……山下 華と申します」
久しぶりに全く知らない相手と話す緊張で、声が詰まりそうになりながら何とか言葉にする。
しばらくの沈黙のあと
『あぁ……付き人の……今から来れる?』
「え?いや……」
『ん?違うの?』
「いえ、そうなんですけど……」
『今から言うもの買って来て。メモ出来る?』
「あ、はい」
相手のペースで話が進んでしまい、断る余地を与えられる間もなくお使いを頼まれ、住んでるマンションを告げられて、会いに行かないわけにいかなくなってしまった。
「い、一時間もあれば伺えると思います」
『分かった。インターホン鳴らしてくれたらロック開けるから』
「か、かしこまりました」
相手が電話を切ったのを確認して、最大級のため息がこぼれた。
直接会って、断るのは難しいと思っていたのに、電話ですら自分のペースに持っていけなかった。
仕事を辞めてから初めて話した他人。
それだけでハードルが高いのに、仕事を断るなんてこと今のわたしに出来るんだろうか……
いや、きっと出来ない。
昔から、あの叔母と過ごしているせいか、わたしは押しに弱い。
押し切られると負けてしまう。
分かっていても、今回のことはちゃんと断らなければと思いを固めて、出かける準備を始める。
久しぶりのメイクも外出着に袖を通すのも、緊張と不安よりも、有名人に会えるかも知れないという、わたしのミーハー精神がかすかに役立っていた。
気は重いなりに、スマホのメモを確認して、久しぶりのヒールを履いて家を出た。
教えて貰ったマンションに到着して思わず見上げてしまう。
「……すごっ」
たぶん一般市民には一生縁が無さそうな高級タワーマンション。
コンシェルジュとかがいそうなマンション。
用事があるとは言え、入るのさえ躊躇ってしまいそうな立派なエントラス。
大きなウィンドウに映る自分の身なりを思わず整えていると、大きな自動ドアが開いてひとりの男性がマンションから出てきた。
少し長めのパーマ髪に金髪ハイライトが入ったサングラスの男。
Tシャツ短パンとラフな格好なわりに、ブレスレットとネックレスだけで相当なお値段がしそうなのが分かる。
目、合わさないようにしよ……
以前の仕事の癖で、ついチェックしてしまった自分を恨んだ。
「あれぇ?」
そのちょっとチャラっとした男が、わたしの方に迷わず大股で歩いてくる。
「あ!やっぱり!華じゃん!」
「えっ?」
なぜ生涯交わることのないような男が、わたしの名前を知っているんだ。
その恐怖で体を強ばらせていると、男はサングラスを指で少し下げて、クリっとした目を見せてきた。
そこにあった愛嬌のある目元には覚えがあった。
「あ……」
「俺、慎太郎!久しぶりじゃん!全然変わんないね」
サングラスを外して、嬉しそうにわたしの頭の先から足の先まで何度も視線を動かす目の前の彼に、別の意味で体が強ばる。
「し、慎ちゃん……」
数年ぶりに口にした名前に懐かしさと胸の痛みが蘇るようだった。
「そうそう!そう呼ばれんのも久しぶりだぁ」
高校2年の時、少しの間だけ付き合った同級生。
3年に上がる前に、家の都合で学校を去って行った。
わたしに何も言わないで……
わたしの初めてと、自然消滅の意味を理解するまでの時間を持って行ってしまった元カレ。
何もなかったように声をかけてくる慎ちゃんの心理が理解出来ずに、意図しなくても眉間にシワが出来る。
所詮は過去のことだし、彼にとっては大したことではなかったんだと言われてる気がして、気分の良いものではなかった。
「ひ、人違いです」
「いや、今、慎ちゃんって言ったじゃん」
今更とは思ったけど知らないふりを装って、笑ってる彼の横を通り過ぎようとした時、荷物を持っている方の手を掴まれ、咄嗟に振り払った拍子に買い物袋をぶちまけてしまった。
「あ、ごめん。怖がらすつもりはなかったんだけど」
「あ……」
慎ちゃんの指の感触が残る腕から震えがあがってくる。
ごめんと言いながら荷物を拾ってくれる慎ちゃんを見て、自分も拾わなきゃと思っているのに、体が動かなかった。
「大丈夫?」
血の気が引いていくのが分かる。
このままじゃマズいかも知れない。
「華?」
「へ……いき……行かなきゃ……」
慎ちゃんに差し出された荷物を受け取って、歩き出そうとした足が、わたしの意志とは反対に支えることを拒んだ。
「おい!華!」
そのまま慎ちゃんの方へ倒れ込んだわたしを受け止めてくれた腕と胸は温かかった。
あ……そういえば慎ちゃんって平熱高かったな……
そんなことを思い出しながら、わたしは意識を手放してしまった。
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