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「さて、始めましょうか」
マネージャーの山ちゃんが、スーツのジャケットを脱いで腕まくりをする。ユリはポカンとした顔でたずねる。
「な、なにをですか……?」
「あなたの変装よ?外で他のファンに見られたみたいだからね、そのままイベントに入ったら問題でしょ?大変よ」
「はぁ、まぁ」
気の抜けた返事でピンときていないらしいユリを横目に、山ちゃんはなにやら大きめのカバンの中を漁っている。
「よし、まずはこれに着替えて!」
ユリの前に差し出された服は、今まで着たことのないようなフリフリでふわふわで、とても可愛らしいワンピースだった。
「こ、こんな可愛いの着たことないですっ!」
戸惑って拒否するユリに、山ちゃんが冷静に現実を突きつける。イベント開始まであと1時間、そんなことを言っている場合ではないのだ。
「じゃあ、せっかく当てたイベント行けなくてもいいの?」
「そ、そんなのダメです!ヲタクたるものイベント参加権利を放棄するなんて有り得ません!」
「でしょう?それなら時間もないことだし今日は私に従ってちょうだい、うちのレンが巻き込んでごめんなさいね」
そう言いながらワンピースをユリにあてて、うんうんと頷いている。やっぱり、山ちゃんは怖いだけではない素敵なマネージャーさんのようだ。
「わかりました、すぐ着替えます」
「今と雰囲気変わるからちょうどいいと思うのよね、私の私服だから気にせず着て?別に業界の衣装とかじゃないから」
「え、私服なんですか?!」
ピシッとしたスーツの山ちゃんとのギャップに、ユリは驚いていた。このふわふわのワンピースを着こなす山ちゃんが想像つかないのだ。それがバレたようで、山ちゃんも苦笑いしながら言う。
「そのかわり、それ私のだって秘密にしてね?メンバーへの威厳が保てないでしょ、あなたが似たような体型で良かったわ」
「はい、秘密にします!ありがとうございます」
ユリが着替え終わると、素人とは思えない豊富なメイク道具を広げて山ちゃんが待っていた。ヘアアイロンまで準備されている。その手際の良さに、マイペースなユリは圧倒されている。
「さ、ここに座って?ちょっとだけ今のメイクの上から手を入れるけど、私を信じてくれる?」
「はい、お願いします」
さっきのレンもそうだったが、山ちゃんには人から信頼される才能があるうえに、きっと彼女はそれを裏切らない。ユリは、なんの不安もなく身を任せて目を閉じた。
「STELLAのデビューが決まってしっかりメイクさんが付くまでね、私がみんなのヘアメイクしてたのよ」
「え、すごくないですか?!」
「最大限のサポートをするのがマネージャーの役目だからね、専門の人が付くまではなんでもしてあげる覚悟でやってたわ」
そう話す山ちゃんの顔は生き生きとしている。きっと彼女には、誰かをサポートする仕事が天職なのだろう。
「あんまり女の子にしてあげたことはないから自信がないの、期待しないでね」
と言いつつテキパキと動く彼女は、ヘアアイロンでストレートヘアを束ねてきただけのユリの髪を、慣れた手つきでクルクルと巻き始めた。
「そういえばさっきの話だと、Sunnyなのよね?残念な発表だったわね」
「はい、初めて推したアイドルがBlue Mondだったので、まだ気持ちの整理がついていなくて……」
魔法のようにあっという間に作業を終えた山ちゃんは、ユリの髪のカール具合を最終調整しながら鏡越しに宣言する。
「大丈夫よ、今日あなたは必ずSTELLAのとりこになるから、また明日への希望しか感じない新しい推し活生活が待ってるわ」
「すっっごい、自信ですね?」
思わず背後にいる山ちゃんの顔を見上げて、ユリは振り向いた。そのユリの顔を両手で軽く押さえて、鏡向きに戻す。
「そりゃあSTELLAの魅力を1番理解している、マネージャーですからね!」
「……?!」
鏡の中の自分を見たユリは、言葉が出ない。
「はい、できあがり!ポジティブな変装だよ」
「すごいです……私じゃないみたい」
「彼氏と別れた人がさ、髪型変えたりするじゃない?メイクや髪型ちょっと変えてみるだけで、女子は元気が出るもんなんだよ」
山ちゃんから借りたふわふわのワンピースが、全く違和感のないゆるふわ女子に変身したユリが、そこにいた。まるで普段の自分とは別人になってイベントに参加するみたいで、一瞬で気持ちが切り替えられる。まだ薫さまのことが大好きな、普段のユリも否定しない。そのうえで、STELLAのイベントに参加する新しいユリを作り出した。事務所の社長が、イチオシの新人グループSTELLAを任せるくらいには、山ちゃんの人をマネージメントするチカラはすごい。
「わぁ、ありがとうございます!!」
「さぁ、STELLAの沼へようこそ!会場いってらっしゃい、楽しんでね♪」
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