推しは推せるときに(以下略)

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「いらっしゃいませー」 お姉さんの声に導かれ、ガラガラに空いたレジにスッと流れ込む。マグロのパックとチューハイ1本しか入っていない、女子力のカケラもないカゴをレジに乗せる。なんとなく、レジの人がお姉さんでよかった。こんな日もあるよね?と心の中で同意を求めた。 「530円になります」 「スマホ決済で……」 と、普段通りに言ったところで冷や汗が出た。体温が2度くらい一瞬で下がった気がした。唐揚げがないだの、マグロ割引きやっほいだの言ってる場合じゃない!家の鍵しか持ってない。スマホ置いてきたじゃん……。 推しグループBlue Mond(ブルーモンド)が解散を発表した反動で、感情がどうにかなってしまいそうでスマホを置いてきた。 SNSを開けばヲタク仲間たちはその話題で持ちきりだろうし、スマホケースの裏にもユリの推し「(かおる)さま」のトレカが挟んである。だから、ひとときでも離れてみようとスマホを置いてきた。 まぁ結局、テレビでも大ニュースになっているし、スーパーのお兄さんに励まされるくらいには無意味だったけれど。まさか、習慣づいたスマホ決済でこんなピンチに陥るとは。 スウェットのポケット周辺を、ムダにペタペタと触りながら解決策を探した。もう、レジのお姉さんに正直に「家すぐそこだからお財布持ってきます」って言うしか……と、覚悟したその時。 「あ!ねぇ、俺のも一緒に会計させて?」 いつのまにか私の次にレジに並んでいたお兄さんが、ずいっと1歩前に出て謎に絡んできた。当たり前のように、手に持っていたペットボトル2本をレジに置く。戸惑うレジのお姉さんを、笑顔の圧で押し切る。 「な、770円になります……?」 ピッと読み込んだものの、ユリとお兄さんのどちらに請求すればいいかわからないお姉さんは、疑問形で合計金額を言う。ユリもそもそも自分の会計ができない状況だったので、ただアタフタするしかできずにいた。 「スマホ決済で」 そう言って、表示したバーコードを差し出すお兄さん。 ユリが驚いてその横顔をしっかり見ると、さらなる驚きが待っていた。 『薫さまに似てるイケメン……??!』 危なかった、また心の声が外に出るところだった。これだから、ヲタクは困る。見上げるほどの身長、少し長めの適度な茶髪、なんでも器用にこなせそうな、綺麗な長い指と手。おまけに、見ず知らずのユリを助ける優しさ。 いったい今日はなんなんだ?推しから少し目を逸らしてみただけで、本当はユリの日常にこんなにイケメンがいたのか?いや、ありえない。今日はたまたまだろう。 レジのお姉さんは、反射的に差し出されたスマホのバーコードを読みとる。会計が終わる。 「ありがとうございましたー」 レジのお姉さんの声で、現実に戻される。 当然のように、カゴを持って梱包スペースに進む本日2人目のイケメン。ユリは呆然とその後ろ姿を見ていた。 「ねぇ、エコバックは持ってるの?」 「え、いや持ってない……です……」 振り向いて優しく聞いてくるイケメンが眩しくて、ユリはほぼ反射で返答している。 「え、あ、違う、お金どうやって返したら?あ、少し待ってて下さい家すぐそこなんで!お金持ってくる!です!」 「ははっ」 ユリの慌てぶりに、笑うイケメン。もう意味がわからない、そこで笑うの?いいよもう、いっそ怒ってくれよ。 「さっき最初530円だったでしょ?俺の誕生日5月30日なんだ、もうすぐ!名前はレンだよ?それだけ覚えといてくれれば、お金はいらないよ」 イケメンが、爽やかに、意味不明な理論を押し付けてきている。呆気にとられているユリに、イケメンは小さめのエコバックにいつの間にか入れてくれたマグロとチューハイを差し出す。 「はい、エコバックもプレゼント!もらい物だから気にしないで!気を付けて帰るんだよ、Sunnyちゃん」 そう言ってユリの頭をポンポンとして、自分のペットボトル2本をそのまま長い指で片手に器用に持ち、去ろうとしている。 「いや、あの、ありがとうございます!?」 「うん、それでいい!元気出してね!」 イケメンは爽やかに去っていった。取り残されたユリも、拍子抜けしたままなんとなくスーパーを出て家に向かった。 「もはや私の名前がSunny疑惑……?」 度重なる想定外の出来事に、ついにユリのひとりごとまで意味不明になった。 ふと夜空を見上げると、さっきまで見えていた月が雲に隠れて見えなくなっていた。 Blue Mond(ブルーモンド)のことを見られなくなる日が、もうすぐやってくる。 いつか来るとは思っていたが、思ったより早かった。ただ、それだけなのかもしれない。 【推しは推せる時に推せ】 いまやヲタク界では有名な名言だけれども、最初に発言した人は誰なんだろう?本当に真理をついている。結局どんなに大きな愛と推しが存在したとして、遅かれ早かれヲタクが行き着く末路はそこなのだ。推し活のゴールテープは、ある日突然用意される。そこからは逃げられない。なぜって、推しもまた人間だから。それ以上の答えは、ない。 あまり考えるとまた涙が出そうなので、ユリは足早に歩き始めた。 公園の横の歩道で、毎日のように見かけるパーカーのフードをかぶったままランニングする、近所の人とすれ違った。 『ん?めっっちゃいい香水の匂いした!』 夜の暗さと、フードのせいで顔は全く見えない。でも、毎日このへんを走っていることは知っている。ボクサーか何かかな?暑くないのかなぁ?と、すれ違うたびに思うユリだった。しかし汗のにおいではなく、彼から素敵な香りがすることを、この日初めて知った。
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