恋の始まり2

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恋の始まり2

 アンリエッタは気弱だから。  父に迷惑がかかる。母と兄に心配をかけてしまう。そう思って、告げ口もできないことを知っている。 「はやく、泣き止まなくちゃ……お父様に、ご迷惑が掛かってしまう」  必死で目をこする。けれど一度あふれた涙を止めることはなかなかできない。  早くしないと。声の主である大人が見に来てしまえば、アンリエッタは泣いている理由を聞かれてしまう。  だが、いくら時間が経てど、大人がここを見に来ることはなかった。  ようやっと泣き止んだアンリエッタが、それを不思議に思って、けれど泣き疲れたせいで座り込んだとき、ふいに、少年のような高い声が聞こえてきた。 「大丈夫?」 「え……?」  生垣の下の隙間から、ハンカチが差し込まれる。白くてシンプルなそれには、Fと刺繍されていた。 「声をかけるのが遅れてごめんね。あいつらの顔、覚えておかなくちゃって、立ち去るのを見てたんだ」 「覚えて、おかなくちゃ……?」 「うん、だって、自分より小さい女の子を囲んで悪口を言うなんて、男の風上にもおけないからね。そんな人間は、この国の未来にはいらない。ああ、大人は来ないから安心して。君の泣き顔を見る人はいないよ。僕、大人の声真似が得意なんだ」  男女という第一性より、アルファ、ベータ、オメガという第二性が重視されるこのフリージア帝国で、そんなことをいうひとがいるなんて。アンリエッタは驚いて、涙を拭くことも忘れ、ハンカチを握りしめてしまった。 「あ、えっと、怖がらせた……かな?」 「う、ううん! あの、えっと、珍しくて。そんなことをいう人、あんまりいないから。だって、私はアルファだもの……自分の身も自分で守れないアルファなんて、情けないでしょう?」 「どこが?」  少年の声は不思議そうに言った。 「アルファだ、オメガだ、ベータだ、なんて、関係ない。大勢で一人を囲むってやり方はフェアじゃないし、それでなくてもあれは何の意味もない悪口だ。君が受けないといけないものではないよ」 「…………でも、私、本当になんにもできないの。これをしなさい、あれをしなさい、って言われたことが全然上手にできない……がんばりたいのに」  言葉の最後が小さくすぼまる。  アンリエッタは、少年のくれたハンカチで目元をぬぐった。  いけない、また涙が出てきた。  すん、と鼻を鳴らしたアンリエッタに、少年はしばし何か考え込むように沈黙した。  そうして、ややあって、少年の声が言った。 「ねえ、君は、好きなことはある?」  突然の質問に、アンリエッタは一瞬戸惑った。 「……だから、私、なんにもできないって」 「はは、違う違う。好きなことだよ。寝ることでも、食べることでも。僕はそのどっちも大好きさ」 「……まあ。寝ることと食べること、だなんて、赤ちゃんみたいね」  少年につられて、アンリエッタは少しだけ口角を引き上げた。  けれど、その笑顔も、思い出したようにしおれてしまう。少年が自分を慰めて自分を下にしているのだ、ということに気づかないほど、アンリエッタは鈍くない。  アンリエッタはそうね、と少し考えて言った。 「歌うことは、好きかもしれないわ」  思い出すのは、教会でのミサだ。思い切り声を出して歌うことは、嫌いではなかった。 「本当? 歌うことが好きなんて、すごいなあ」 「でも、上手ではないわ」 「好きっていうのは、楽しめるってことだろう? 君は歌うことを楽しいと思えるんだ。それって僕にはできない。すごいことだよ」 「慰めはいいわ。……私、自分がそんなすごいひとじゃないってちゃんとわかっているんだもの」  自分に言い聞かせるようにして、アンリエッタは言った。  浮かれたら、沈んだときが苦しくなる、と、きちんとわかっていた。  少年は言葉を失ったようだった。これでいい。  アンリエッタは、自分で自分のことを理解している。  下手な慰めに、わずかに残ったぼろぼろの矜持を傷つけられたくなかった。アンリエッタは、ひとの厚意すらうまく受け取れない臆病者だった。  少年の声が聞こえなくなる。あきれてどこかへ行ってしまっただろうか、と思って、アンリエッタは自分がそう仕向けたくせに、悲しくなった。  意地っ張りのアンリエッタ。アルファとしてのプライドばかり達者で、そんなだから、誰もかれもがアンリエッタから離れて行ってしまう。  握りしめてくしゃくしゃのハンカチを、もう一度目元にあてた、その時だった。 「――……」  歌が、聞こえた。高音から低音へ急に切り替わるような歌。歌詞も何もない、調子っぱずれの音の羅列。
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