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たとえ人ではなくても②
ノックをしても中からの返答はなかった。
「九我さん、宇佐美です」
宇佐美はしばらく待ったが、扉の向こうからは、何の気配も感じられない。
失礼しますと、宇佐美は引き戸を開けた。
部屋の中は暗く、静かだ。
高層階にある特別室は、高級ホテルさながら、都会の夜景が綺麗に見渡せた。
この病院は政治家や芸能人がスキャンダル中の隠れ蓑としてよく使われる。
やんごとなき方々のご出産の場としても有名だった。
奥でカーテンを引く音がした。
目をやると、ベッドを囲むカーテンから、正語が出て来た。
「ご報告があります」
宇佐美が頭を下げると、正語は無言で、カーテンを隙間なくきっちり閉めた。
あのカーテンの向こうには、変わり果てた姿の秀一がいる。
宇佐美は暗い部屋の奥から、目を背けた。
「飲むか?」と正語は酒の瓶とグラス二つをテーブルに置いた。「兄貴が置いて行った」
「こちらの外科部長でしたね。お身内の病院ですと、何かと安心ですね」
「余計な検査ばかりさせられている」
正語は酒瓶の封を開けるとグラスに並々注いだ。
宇佐美はグラスを受け取っただけで、口をつけずにテーブルに置いた。
だが正語は、水を飲むようにグラスを飲み干すと、再び自分のグラスに琥珀色の液体を注ぎ、また飲んだ。
——酒に逃げる人だったか。
宇佐美はそっと思った。
失望もしていない。哀れんでもいない。
ただそう思った。
「あいつが運ばれて来た時、俺が何を考えたか、わかるか?」
答えを求められているわけではない。
宇佐美は黙って、酒の入ったグラスを見つめた。
「せいせいした。笑い出しそうになった」
狂気じみた声だった。
居たたまれなくなる。
「やっと終わった。もうこれで、あいつに振り回されることは無くなった。俺は、自由だってな」
あまり上司のプライバシーには立ち入りたくはない。
仕事がやりにくくなるだけだ。
宇佐美は仕事をした。
「九我さん。未央君を見失いました」
「——あの子、歩けるのか?」
「無傷です」
同じ事故に出くわしたのに、未央は奇跡的にかすり傷一つなかった。
いったいどんな魔法が彼にかけられたのか。
「ただ、様子のおかしいパジャマ姿の子供が、年配の女性の車に乗せられたと通報がありました。その方はナンバーも控えてくれていて、そこから藤子さんが日常的に使用している車だと判明しました。現在、捜査が始まっています。
通報者は古い自転車に乗ったご老人だったそうですが、日本も捨てたものではありませんね。あの広大な敷地を捜査する突破口になりそうです。美遙さんの遺体はまだ事故現場から見つかっていませんし、秀一君が言っていた遺体を燃やした小屋が見つかるといいのですが」
正語は、また酒をあおった。「どうしてあいつは、あの家にいたんだ……家で大人しくしてろって、言ったのに……あのバカ女は、なんで夜中に高校生を呼び出してるんだ!」
秀一と最後に会話したのは聖麗だった。
聖麗は秀一から、電話で実家の除霊を持ちかけられたと説明した。
だが聖麗から秀一の迎えを命じられた真壁は、待ち合わせ場所には、誰も来なかったと証言している。
「家中の部屋を全て見せてくれと、秀一君は言ったそうです。未央君を探し出すつもりだったのでは、ないでしょうか?」
「俺が見つけてやるって、言ったのに、あいつは無視した! 俺はどうして信用されないんだ!」
秀一を庇うつもりが、逆に正語を怒らせたようだ。
「おまえ、ハムスター飼ったことあるか?」
「いいえ」
「俺の家は、母親が動物の毛が家に落ちるのが嫌だから、犬や猫は飼えないんだ」
「そうですか」
「ガキの頃、頼み込んで、ハムスターを飼わせてもらった」
「良かったですね」
「手の中で、こう持ってると、奴は指の間から逃げようとするんだ。手に力を込めると死なせるんじゃないかって怖いし、緩めると逃げる。家具の隙間に入ると中々出てこないし、イライラして、いっそのこと握りつぶしてやろうかと、何度も思った」
「……」
「俺に飼われてれば、安全だし、快適で、飯も食えるのに、何で俺から逃げるのか、わからない」
「……自由は、生き物共通の本能なのかもしれませんね……犬が飼えたら良かったですね。愛情を注いだ分、いえ、それ以上に返してくれますよ」
「あいつは、ザルだ」
「はい?」
「俺が、いくら想っても、あいつの中には何も残らない」
また立ち入りたくない話題になってきたので、宇佐美は仕事に戻った。
「筒井さんが殺された日、体育倉庫を写生していた鮎川君が何を見たのか、やっと聞き出せました。鮎川君がずっと黙っていたのは、あの日の朝、多聞くんが倉庫の中に入って行くのを目撃したからなんです」
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