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たとえ人ではなくても③
「九我さんは、覚えていますか? 八月に入って電車が突然に錆びついた謎の事故が発生しましたよね?」
宇佐美が言うと、正語は下を向いた。
「そんなことも、あったな」
あまりに寂しそうな様子に、宇佐美は言い淀んだ。
「お疲れですか? お暇しましょうか?」
「続けてくれ」
「筒井さんが亡くなったのは、その翌日です。朝から事故の影響でダイヤが乱れていたので、鮎川君は父親の車で登校しました。早い時間に学校に着いた鮎川君が、体育館裏のベンチに寝転んでスマホをいじっていたら、多聞君が走って来たそうです。多聞君は体育倉庫の戸を蹴って『王来寺美也子の娘が来てやったぞ』と怒鳴ってから、中に入って行ったそうです」
体育倉庫から出て来た多聞は、また悪態をついた。
『脅迫しといて、遅刻してんじゃねえぞ、バーカ! 電車が遅れるぐらい、頭入れとけ!』
舌打ちした多聞は、金取る気あんのかよとブツクサいいながら、行ってしまった。
「鮎川君はショックだったようです。王来寺美也子の娘『しーちゃん』とは幼馴染で、女の子だとばかり思っていたのですから」
「同じクラスにいて気づかなかったのか」
「鮎川君は一学期中は、ほとんど学校に来ていません。『しーちゃん』は鮎川君の初恋の相手だったそうで、その相手が男だと分かった時は、二度失恋した気分だったと言ってました。子供の時は『あっちゃんの方がいい』と多聞君に撥ねつけられたそうですから」
「筒井は本当にその子を強請っていたのか?」
「正確には、多聞君が一緒に住んでいる多聞千歳さんをです。筒井を雇ったのは聖麗さんですが、規定の報酬を貰うより、多聞君を匿っている千歳さんを強請った方がお金が取れると思ったのかもしれませんね。それを知った多聞君が怒って筒井さんに会いに一人で行ったんです。
鮎川君は多聞君が去った後に筒井さんが倉庫の中に入って行くのを見ています。それから、背の高い女が入るのも目撃しています」
「聖麗か?」
「わかりません。その女性は、サングラスをして日傘で顔を隠すようにしていたと鮎川君は言っています。サングラス姿の女性は十分ほどして一人で出て来たそうです。鮎川君はその後、土手を上がり、篤人君達と合流して写生を始めたそうです」
「なんで警察にすぐ言わなかったんだ」
「鮎川君は、その女性を美也子さんだと思ったようです。ただでも辛い目にあっている初恋の女の子を守ってあげたかったのかもしれません——鮎川君の家も詐欺被害にあって大金を失っていますが、美也子さん母娘を悪し様に言うのを聞いて、鮎川君はカッとなって父親を殴ったこともあるそうですから」
「聖麗はどうして美也子の娘を探してたんだ?」
「彼女が困っているなら助けてあげたかったと、言っています」
「らしくないな」
正語は口の端だけで笑って、また酒を注いだ。
そのボトルをテーブルに置く音が響く。
「はい。聖麗さんがスパナを持ち歩いて、竹中さんを殺害するというのも考えにくいです。たとえ自分の犯行を目撃されたからといっても——」
宇佐美は奇妙な事に気がついた。
部屋が静かすぎる。
「どうした?」
正語が見上げてくる。
宇佐美は思わず立ち上がっていた。
「九我さん、呼吸器、停めたんですか?」
この人は、秀一を安楽死させたのか——。
宇佐美は慄然とした。
暗い部屋の奥、カーテンに囲まれたベッドを見つめたまま固まった。
「俺じゃない。兄貴が外した」
ああそういうことかと、宇佐美は力無く腰を下ろした。
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