34人が本棚に入れています
本棚に追加
体育倉庫の死体④
夏休みとはいえ、運動部に所属していると、ほぼ毎日学校に通うことになる。
その上、秀一は一学期の成績が振るわず、夏季セミナーの受講を担任から厳命された。
「鷲宮君は、基礎からやり直した方がいいね。夏休み中に、これやって」
くまモンとあだ名される、秀一の担任、巨漢の熊崎はニコニコしながら、中学三年間分が詰まった英数国三教科のドリルを渡してきた。
一日の分量は相当なものになるが、七月は実家のゴタゴタで手を付けていない。
そのため、八月に入っての秀一は忙しかった。
朝練に出て、夏季セミナーを受講して、また部活。家に戻れば宿題が待っている。
引っ越した正語のマンションに行く時間も作れなかった。
『今度いつ来るんだ?』との正語からのメールは嬉しいが、身動きが取れない日々が続いている。
休み時間、机に突っ伏しながら、秀一は考える。
『滅びの魔女』として生きていた前世を思い出した今、自分に数学や英語は必要なのか?
欲しかった男を手に入れたのに、その男にも会えず、授業を受ける理由はどこにある?
(……でも、くまモンはオレが落ちこぼれるのを本気で心配してくれている……)
部活は楽しい。くまモンをがっかりさせたくない。
結局秀一は、この多忙ループから逃げる考えを捨てた。
「おい」
ハルの声がして、秀一は顔を上げた。
だがハルは秀一の隣の席の未央に用があるようだ。
一瞬、ハルと目が合ったが、向こうはプイと顔を背けた。
ハルの横には篤人もいたが、秀一はまた机に突っ伏した。
ハルはこのところ機嫌が悪い。
秀一がうっかり満員電車に乗った話をしたからだ。
出無精で家と学校を自転車で往復しているだけの秀一が、いつ満員電車に乗ったのかハルは訊ねてきたが、秀一は『言いたくない』と突っぱねた。
適当に誤魔化せばよかったのだろうが、友達に嘘はつきたくない。だからといって、正語のマンションに泊まった話は口が裂けてもしたくない。
(ハル、ごめん)
ハルは秘密を作られるのが嫌いだ。
それは分かる。
分かるが、正語との関係が知られれば、正語の立場が悪くなる。
十九世紀のイギリスにいた過去世を持つ秀一には、恐怖しかなかった。
ウトウトしていたら突然、後ろの席から鮎川の声がした。
「それ、やめた方がいいよ」
秀一はパッと起き上がった。
相変わらず未央の机の前には、ハルと篤人が立っている。
「馬鹿げていると思わないの?」と鮎川。
秀一は振り返って、鮎川を見た。「何かあったの?」
長期欠席が続いた鮎川も夏季セミナーが義務付けられたが、秀一と違いかなり勉強ができる。一学期中は口をきいたことがなかったが、わからない所を教えてもらっているうちに仲良くなれた。
「ハルがくだらない事を、未央にさせようとしている」と鮎川が言うと、「おまえには、関係ないだろ!」とハルが怒鳴った。
ハルは鮎川ではなく、秀一を睨んでいた。
(……オレ、何も言ってないのに)
不貞腐れて、秀一はまた机に突っ伏した。
間もなく大股で去っていく足音がした。
秀一は薄目を開ける。
肩を怒らせたハルが教室を出て行くのが見えた。
続いて「あっちゃん、話がある」と鮎川が篤人を連れて教室を出て行った。
机に寝そべったまま秀一は、隣の未央に顔を向けた。
「何があったの?」
「僕、王来寺くんの婚約者に似ているんだって」と未央が真っ赤になった。「今度、婚約披露パーティーがあるらしいんだけど、その婚約者の人と連絡がつかないから、身代わりになって欲しいって、頼まれた」
「アユは、それを止めたんだね」
そりゃそうだろう、人を騙すのは良くないと秀一は納得した。
「秀ちゃん、今日は忘れ物ないの?」
「全部、持ってる」
忘れ物の多い秀一は、筆記具を未央からよく借りる。
「数学の問題やった? 秀ちゃんの列が当てられる日だよ」
「……やってない」
未央はノートを開いて、秀一に渡した。
秀一は起き上がった。「ありがとう」と未央のノートを写す。
(未央って、ホント親切だな)
未央と鮎川のおかげで、秀一は地獄の短期集中セミナーをなんとか凌いでいた。
「バカな事、考えたらだめだよ」
人気のない廊下で篤人は、鮎川に言われた。
「未央が似ているのは、君の婚約者じゃなくて、再従姉弟の美遥さんだよね?」
「うん。ハルは記憶違いをしている」
言葉がスムーズに出る。
ストレスのない環境下で、親しくしている友人となら、篤人は普通に喋れた。
「僕も未央を初めて見た時、驚いた。彼は君の親戚なの?」と鮎川。
「わからない。男が生まれるのは珍しいから、すぐにおばあちゃんの耳に入ると思うけど、聞いたことがないよ」
「本気で、身代わりにするつもり?」
「……未央が嫌でなければ……」
「ボデイガードが殺されたばかりだし、君の家、物騒じゃないか。婚約者にどうして頼まないの?」
篤人は黙った。面と向かって口がきけたら、苦労しない。
『会って話したい』とのメッセージに、このままLINEで連絡を取り合いたいと返したら、相手から返信が来なくなったのだ。
「……逆に、警察の人が増えたから安全だよ」
「自分そっくりな顔見たら、美遙さん驚くだろうね」
「来ないよ。まだ調子良くないみたい。お母さんの方は来るよ。お姉さんの聖麗さんも来る」
「フラれたショックで病んじゃったんでしょ?」
「でも別の人と婚約したんだって」篤人は手で笑いを堪えた。「美遙さんの婚約者の名前がさ、慈音さんっていうんだよ」
「キラキラだね」と、鮎川はニコリともしない。
「(……ガンダム知らないんだ)そうだね……」
篤人はちょっとだけ、がっかりした。
最初のコメントを投稿しよう!