プロローグ①

1/1
前へ
/70ページ
次へ

プロローグ①

 ときどき、何かに喉を押さえつけられるように苦しくなった。  声を出すのが辛くなり、ただ相槌を打ってやり過ごす。  今もそうだ。  なんとか言って下さいと葉月(はづき)に言われても、言葉が出ない。  篤人(あつと)は曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。  助け舟を求めるように祖母を見る。  八十過ぎの祖母、静江(しずえ)は居住まいを正したまま、目を伏せていた。 「世間は男子が継ぐのが当たり前ですのに、どうして篤人さんでは、いけないのですか」  篤人は内心辟易した。 (葉月さん、そのセリフ、何度目ですか……)  篤人の家、王来寺(おうらいじ)家は東京JR線のT駅から徒歩十分。  だがそれは、家の外門から。  母屋を出て広大な庭園や内門、生い茂った樹木を抜けて、駅に到着するには、全速力で走っても、三十分以上は掛かる。  その王来寺家は代々、女系相続が続いていた。  女ばかりが産まれただけではなく、血縁に男が生まれても短命または、素行が悪く後継に相応しくないと、除外されてきた。  篤人はそのような家に嫡男として産まれた。  その後妹でも産まれれば女相続人ができて、親類縁者皆が万々歳だっただろうが、篤人の母親は篤人一人を産んで早くに亡くなった。  いとこ——母親の妹の子供——との縁組は、早い段階で周囲が決めた。  同い年のその子からも『あっちゃんと結婚したい』と、言われた。  篤人が異論を挟む余地はない。    ところが去年、この縁談に暗雲が立ちこめた。  婚約者の父親が、王来寺の名前を使い、投資詐欺で世間を賑わせたのだ。  女たちは大騒ぎをし、婚約解消を訴えて、篤人と自分の娘との縁組を画策し始めた。  母親の死後、篤人の母親代わりであり、この家の家政を取り仕切る葉月は、女系相続撤廃を言い出した。   「あのような人の子供と結婚だなんて、篤人さんがお可哀想です」 (いや俺は、ノリノリですよ) 「第一、その子の名前も伺っていませんよ」と葉月。 (そうですか? 聞いたけど、忘れたんじゃないですか?)  黙り続けていた静江が、小さく言った。   「桐子(きりこ)」  篤人は驚いて、祖母の顔を見た。   (違うよ、おばあちゃん! ボケたの?)  静江はじっと目を伏せたままだ。 「まずは、その桐子さんにお会いしてから判断します」  葉月は、ピシャリと言うと、行きますよという目で、篤人を見た。  篤人は黙って立ち上がった。  葉月の後ろに従いながら、静江をチラリと見る。  静江は目だけで篤人を見て、微かに首を振った。 (黙ってろってこと? あの子のことは、言わない方がいいんだね?)  篤人はうなずき、部屋を出た。  篤人は母屋とは別に、自分専用に造らせた離れに住んでいる。  元は中学から始めたバスケの練習用の建物だが、そのまま住み着いた。  自分の居室に入ると心底落ち着けた。  呼吸するのも楽だ。  部屋に入ると、最近憂鬱になってきているが、スマホを開いた。  婚約者からのメッセージをチェックするが、何も来ていない。  LINEの交換を申し出たのは、篤人からだ。  それ以来、何度もメッセージを送っているが、既読がついても相手からの返信は来なかった。  この一週間は、篤人も何も送っていない。 (……嫌われてんのかな)  それぞれの母親の前で結婚の約束をしたのは、小学校に上がる前だった。  ——あっちゃん、大好き。  そんな言葉をいつまでも鵜呑みにしている自分がバカなのか……。 (婚約解消したいって、言ってくれれば、いつだって応じるのに)  スマホをベッドに放り投げて、シャワールームに向かおうとしたら電話の着信音が鳴った。  友人のハルからだった。   『明日、みんなで飯食おうぜ。秀一(しゅういち)が帰ってきたぞ』 「身内に不幸があったんだっけ?」  声がスムーズに出る。 『アイドル復活で、今日は上級生のみなさん、和やかでしたよ』 「テニス部って、気持ち悪い人、多いよな」 『秀一なんて、女の代用品だけどよ、多聞にコクった奴いんだぞ』 「ウソだろ⁈ まさか、怜司(れいじ)?」 『なんで、怜ちゃんなんだよ』 「……バスケ部、異性交友も同性交友も厳しいんだよ」 「君たち、修行僧なの?」 「あいつ三年抜けたら絶対、七番もらえるし」 『この間、怜ちゃんと合コン行った』 「俺も呼んで」 『フィアンセ、どうした。俺、あの子の顔、覚えてるぞ』 「……会ったの、かなり前だろ?」 『お前んとこで、水遊びしたじゃん。スクール水着、着てたよな。めっちゃ可愛いかった』 「……」 『スクール水着って、よくね?』 「わかる」  ノックの音がした。 「人が来たから、切るよ」  篤人は電話に出ながら、ドアに向かった。 『また明日』 「ん」  スマホをポケットにしまい、ドアを開けた。  葉月が立っていた。その後ろには、小柄な弥生がオドオドと篤人を見上げている。 「お休みのところすみませんが、非常事態です」  葉月の顔が緊張していた。 「篤人さんにお見せして」  葉月に言われた弥生が、おずおずと何やら紙を差し出す。 「内門に貼り付けてあったそうです」  受け取った篤人は、驚くより感心した。 (……本当に切り貼りしてるよ……こんなの、アプリがありそうだけどな)  新聞か雑誌から文字を切り抜いて作られたその手紙には、こう書かれていた。 『美也子の娘との結婚を取りやめろ。さもなくば、王来寺の家に災いが起きるぞ』  
/70ページ

最初のコメントを投稿しよう!

34人が本棚に入れています
本棚に追加