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それから、半年後。
経営者を失った『エリィの産院』はテイトモータースによって買収され、新会社として郊外に大規模な施設を構えることになった。
小さな地下の研究室は今や立派な研究棟に変わり、人手不足だった研究員も何処からかき集めるのか知らないが遺伝子解析のプロが増員されるという。
『監視を強化する』という名目で人類多様性委員会も深く関与してくるらしいから、今やミサの研究は事実上の『政府公認』となった。
「気をつけて! ゆっくりと、ゆっくり搬入して」
「この設備は今の位置で設置していいですか?」
「低圧配電盤、1次側の投入が終わってますから注意してください」
『新研究棟』に続々と設備が運びこまれ、研究員たちが忙しそうにしている。元から一緒に仕事をしていたチームのメンバーも何処か楽しそうにしながら手伝いをしている、その脇で。
「……」
ミサは相変わらずぼさぼさ頭のまま独りぽつんと、窓際に仮置きされたデスクでモニターとにらめっこをしていた。
「『研究所長』ねぇ……」
それが、ミサに与えられた新たな役職。総勢300名を超える一級の研究員たちを束ねる輝かしいプロジェクトリーダー。その役割は『追いかけてくる遺伝子改変の闇』から、『光を抱えて逃げ続ける』ことだ。
「エリィ、ごめんね。アンタの目論見は見事に外れたよ」
誰に言うでもなく、ぽつりとこぼす。
旧の産院を引き払うときに偶然、ミサは見つけてしまったのだ。エリィの事務机の下に落ちていた『睡眠薬の空き袋』。しかも、かなり強力な類の。
それはエリィが『耐えきれない苦悩と戦っていた証』。製薬メーカーに問い合わせると、抗不安薬の類いも定期的に発注していたようだ。
最後まで隠されていた、エリィの心を孤独に蝕む闇と葛藤。
「ごめんな。あんたはアタシのことを分かっていないと思っていたけど、あんたを理解していなかったのはアタシの方だったよ」
大学院時代。学者としてのステータスに特化してデザインされたことで人付き合いが極端に苦手だったミサにとって、誰とでも気さくに喋るエリィはまるで『光』のようだった。
自分という『闇』を照らしてくれると信じて一緒に起業した。
だが事業が拡大していくにつれ、エリィは益々その光を増し、ミサは益々苦悩の闇へと堕ちていった。追いかけるどころか、離される一方。研究の行き詰まりもあって、ストレスと疲労はピークに達していた。
「エリィ、あんたも『もうこれ以上は無理』と分かっていたんだね。そして責任をとって強引に幕引きをする決意をした。……アタシを地下の研究室から救い出すために『一芝居を打った』んだ」
そう、偽薬のすり替えをしたのは死んだエリィ自身だったのだ。
センセーショナルな事件が起きれば全てが露見する。殺人容疑のかかるミサは生命倫理観不足の疑いで遺伝子研究を禁止されるはず。もう悩まなくて済むはず……エリィは、多分そう考えていたのだろう。
ミサも『それならそれでいい』と悟って話を合わせた。
だが、走り始めた光に『止まる』という選択肢はなかった。この計画の先には『宇宙放射線に強く、より長寿命な宇宙開拓人種』を作る目的があると、サトウは言っていた。「人類永続のために、この研究は必要悪なのだと思って受け入れて欲しい」と。その資金は上流階級が支えるのだ。
「だったらいっそさ」
ミサが椅子の背もたれをギイと鳴らした。
「やってやるよ、力の限りに。追いかけてくる闇がどれだけ速く、深くなろうと逃げ切ってやるさ。……済まないなエリィ、アタシはそう生きることにしたよ」
ミサが目を転じた窓の外には、広大な海が広がっていた。キラキラと、太陽の光を美しく乱反射して……。
完
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