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「待ちやがれ、クソガキ!」
追手が来る。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。
誰もいないところへ――。
「はぁっ、はぁっ、はぁ……」
こんなに全速力で走ったのは久しぶりだ。学校なんかしばらく行ってないから、体育の授業も遠い思い出になっている。
ここまでくれば、大丈夫かな……。
俺は隠れていた木陰から頭をだして、辺りを見回した。誰もいない。
手の中にあるチキンに被りつく。肉汁が手に滴った。おいしい。二日ぶりの飯。
食べながら涙が出てきた。これからどうしたらいいのかわからない。行くあてなんてない。今日も公園に寝泊まりするしかないのか。はは、この歳でホームレスとか笑える。でも、警察の見回りとかあったら、バレるかな。バレたら、連れ戻されるかな。
今更、あんな家に帰りたくない。俺は強引に涙を拭って、チキンを口に押し込んだ。これから、こんな風にしか生きられないのかな。
「……万引きなんか、したことなかったのに」
どうして、こうなってしまったんだろう。俺の、何が悪かったんだろう。
これから、どうしたらいいんだろう。
「あんた」
その時、突然声をかけられた。驚いて振り向くと、おじいさんが立っていた。手には大量の空き缶の詰まったゴミ袋を持っている。
――ホームレスか……? ホームレスのじいさんが、何の用だ。
手に握っていたチキンの袋をぐしゃぐしゃに丸めて、俺は威嚇するようにおじいさんを睨みつけた。
「あんた、行くあてがないんじゃないのかい」
「……は」
おじいさんは、やわらかく俺に笑いかけた。ゴミ袋がごしゃっと音を立てる。
「そう警戒しないどくれ。仲間だよ」
「……ホームレスと一緒にしないでくれ」
「ホームレスなんかじゃないわい。ノラだ」
「……何だソレ」
俺はおじいさんを下から上まで観察する。どうみたってホームレスなのに、何を言っているのだろう。俺を騙そうとしてるんじゃないか。
このまま逃げてしまおうか。そう思った瞬間。
「じいさん!」
ガタイの大きな男の子が現れた。あ、しまった、終わりだ。通報されて、家に連れ戻されるんだ。俺は走り出す構えをとった。
しかし少年は俺を一瞥したのち、何事もないかのようにおじいさんに話しかける。
「またノラをみつけたのか」
「ああ。威勢のいい子だ」
「じいさんのお眼鏡にかなったなら歓迎だ。なあ、お兄さん。よければ、俺たちの仲間にならないか?」
「……なかま?」
俺に仲間なんていない。学校に行ってもいじめられるばかりで、友達なんて呼べるヤツは一人もいなかった。家にだって味方はいない。いつも家に居なくて俺のことには無関心な父、すぐに怒鳴り物を投げつけてくる母。居心地の悪い家。俺の居場所なんてどこにもない。
「……初対面で、仲間って、意味わかんないし。ていうか、ノラってなんだよ」
「お兄さんみたいに、家のない子たちの集まりだよ。今夜寝るところはあるか? この辺は見回り厳しいから追い出されるぞ」
恰幅のいい少年は豪快に笑い、「こっちだ」と俺においでおいでをする。
「寝床を教えてやる。家出なら家出で構わないさ。俺達はお互いのことを深く詮索しない」
「わしも交換が終わったら戻るから。あんちゃん、アイツに付いていきな」
寝床というのは、かなり魅力的な文句だった。陽はもうだいぶ傾いている。このまま夜になれば、見回りの警察に見つかるかもしれない。
「……通報したら、承知しないぞ」
「ははは、しないよ。したら俺たちもお縄だ」
いちかばちか、賭けだ。家に帰らなくていいのならなんでもいい。今夜の寝床にありつけるならそれでいい。
俺は半信半疑のまま、少年についていった。何となく、この人は無害な人だろうと感じていた。
それにしてもさっきのおじいさんは、なんで俺が家出したってわかったんだろう。万引きをした人に一人一人聞いているわけじゃないだろうに。
「……あのじいさんは、不思議な人なんだ」
少年が、まるで俺の心の内を見透かしたように言った。
「俺たちも全員、あのじいさんに拾われた。……こっちだ」
公園の、雑木林の奥にある、大きな土塊を持ち上げた少年は「見つかる前に、早く」と俺を急かした。俺は言われるがままに梯子をおりていく。
そこには、ぽっかりと、何もない空間が広がっていた。
「……なんだ、ここ」
「俺たちの秘密基地。下水道かなんかのなりそこないじゃないかって。じいさんが見つけたんだ」
「……さっきのおじいさんも、ここで暮らしてるのか?」
「そうだよ。あと二人ノラがいるけど、そろそろ帰ってくるんじゃないかな」
ランプ――生まれて初めて実用しているところを見た――を点けながら話す少年は、どこか楽しそうだ。この子もホームレスなんじゃないのか? ホームレスって、そんな気楽でいていいものなのか? 俺は今、自分の身に起きていることを理解するのに精いっぱいだった。洞窟(と呼んでいいのかはわからない)の中はじとじとと湿っていて、かといって息苦しくはない。どこからか風がはいっているのだろうけれど、外で寝るよりは冷えずに済みそうだ。
少年は転がっていたいくつかのパンパンのリュックのうちひとつを選び、中から服を取り出して、俺と見比べた。
「……お兄さん、俺の服じゃ入んないよな」
「いいよ、そんな」
俺は後先考えず、着の身着のまま家を飛び出してしまったことを恥ずかしく思った。この子でさえ、こんなに荷物を持っているのに。
「でも、寝る時窮屈でしょ」
「慣れてるから平気」
少年が、ならいいけど、と相槌をうったのと同時に、天井が騒がしくなる。ごそごそ、という音がしたかと思うと、カンカンと細長い金属の音が響いた。梯子をおりてくる音だ。俺の心臓は飛び出しそうなほどうるさく鳴り出す。もし、降りてきたのが警察だったら。正義感の強い大人だったら――。
「あ、あたらしいノラがいる!」
――現れたのは、小さな女の子だった。
女の子は俺を見つけるなり、小走りで駆け寄って笑いかける。
「おにいさん、こんにちは」
「こ、こんにちは」
にこ、と笑う少女に、俺は拍子抜けしてしまった。こんな小さな子にびくびくしていたのか。というか、この子もホームレスなのか? かくれんぼと間違えているんじゃないか?
「じいさん、また拾ったのか」
少女の後ろから。先ほどの少年より幾ばくか小柄な少年が顔を覗かせた。もう一人いたようだ。この子も俺と目を合わせると、にこ、とほほ笑む。俺は今、自分がどんな表情をしているのかわからない。
「ああ。ついさっき、ノラになったんだ。じいさんは今、換金してる」
「じいさんのお墨付きなら安心だな」
「そーだね。おにいさんなら、つうほうしなさそう」
大柄な少年が俺を紹介しながら、二人の帰りを受け入れた。さっき言っていた「あと二人」とは、この子たちのことなんだろう。
「じゃあ、さっそく歓迎会をしないとな」
小柄な少年が、リュックから透明な袋を取り出した。中に入っているのはパンの耳だ。
「ひとり二本な」
お兄さんも、と差し出されたので、俺はおそるおそる、袋の中からパンの耳を引き抜く。小学校の席替えのくじ引きを思い出した。
「えーと、まず。新しい仲間に、乾杯!」
「かんぱい!」
「か、乾杯」
四人で、パンの耳を軽く合わせた。なんて簡素な、小さな乾杯だろう。こんなささやかな歓迎会ははじめてだ。頬が熱くなるのを感じながら、俺はほんの少しだけパンの耳をかじった。香ばしい匂いが、鼻の奥に広がる。
「俺はダイキ。ノラのリーダーだ」
「え、おじいさんは?」
「じいさんは、なんていうか、保護者みたいな。リーダーは俺でいいって言ってくれてる」
ダイキはあっという間にパンの耳を一本食べ終わった。水もなしによく一気食いできたものだ。ダイキの隣の少年は、もう少し遅いスピードで食べ進めている。
「僕はトモヤ。これは仮の名前。お兄さんも、教えたくなかったら仮の名前でいいよ」
「……教えたくないの?」
「僕たちは、互いに詮索しないんだ。でも呼び名はあった方が便利でしょ」
確かに、そりゃそうだ。いつまでたっても、あの、とか、きみ、とか呼ぶわけにはいかない。名前を呼ばれなかった学校生活を思い出し、ちょっと頭がちくちくした。
「あたしはチヒロ。ちーちゃんでいいよ」
少女は、ゆっくりと大切そうにパンの耳を食べていた。大きな目は随分人懐っこい印象を与える。
「おにいさん、おなかすいてないの?」
「……さっき、ちょっと食べたから」
「えー、いいな。なにたべたの?」
「…………」
こんな小さい子に、万引きしたチキンとはとても言えなかった。人に言えないことをやってしまった。そのことの後悔が、俺の身体を蝕んでいく。一度犯した罪は消せない。努力で忘れることはできるかもしれないけど、今の俺には無理そうだ。
「言えなかったら、いいよ」
「え」
チヒロはこともなげにそう言うと、パンを最後まで口に詰め込んで、ごくりと喉を鳴らした。
「あのね、ノラにはルールがあるの」
「ルール?」
おしゃまな女の子が得意げに言いそうな単語だ、と思った。一丁前に大人ぶって、グループごとの決まりをつくる。幼稚園の頃から、そういう子は多かった。そして俺は、もれなくそのルールから漏れていく。何故だかいつのまにか、ルールを守れなくなっているのだ。だから俺は、ルールが苦手だ。
「ひとつ。互いに詮索しない」
ダイキがそう言い、人差し指をたてる。さっき、トモヤが言っていたことだ。詮索って、どこからどこまでのことを言うのだろうか。名前すら仮でいいのなら、なんだって嘘を言えそうな気がするけれど――こういうところがダメなんだろうな、俺は。
「ふたつ。犯罪はおこさない」
どき、と胸が痛んだ。さっきの自分を見透かされているようで、鎮まっていた心臓が再びばくばくと早鐘をうつ。さっそくのルール違反だ。今ここで見放されたら、俺は本当に行くところがない。
「みっつ。たすけあう」
ダイキとトモヤの立てた人差し指に、自分の人差し指を当てながら、チヒロは嬉しそうに言った。
「あたしたちは、たすけあって、いきてるの」
「助け合うって……」
俺は今、何も持っていない。寝る場所を貸してもらって、パンの耳を与えられて。俺から返せるものなんて何もない。
「まずは、お金と飯だよ。みんな、昼間に稼いでくるんだ」
「稼ぐったって」
「外の世界って広いぜ。方法はいくらでもある。お前もノラなら、明日から稼がないといけない」
言われるがままにやってきて、言われるがままに仲間になって。突然ルールを設けられ、明日からの仕事を命じられ。さすがに混乱してしまった。そんなの聞いてない、と言おうと口を開くと、カンカンとあの金属音が聞こえた。
「郷に入っては郷に従え、じゃ。あんちゃん、みんなの言う事聞きな」
「おかえり、じいさん」
おじいさんが、いつのまにか洞窟に帰ってきていた。トモヤがパンの耳を渡すよりも先に、おじいさんは洞窟の奥の、大きな壺の前に立った。
「チヒロや。開けてもいいかい」
「いいよ。みんなも入れよう」
少女の号令に、他の二人も立ち上がる。おじいさんは壺を俺の前に持ってきて、その蓋をあける。中にはぽっかりと暗闇がひろがっている、かと思えば、チヒロが壺をひっくり返した。中から大量のお金が飛び出す。
「これが、俺たちの財産」
「稼いだら、ここに貯めてくんだ。そんで、みんなで飯を買ったり、銭湯に行ったりする。今日はどっちの日でもないけど」
「……うん、きのうとおなじ。みんな、きょうのぶん、たして」
チヒロは小さな指先で小銭を一通り撫でまわし、その合計額を計算したようだ。
「あたし、がっこういったことないけど、こういうのはできるの」
と、自信満々に背をそらし、ポケットから小銭をとりだす。
「にひゃくはちじゅうえん」
「302円」
「130円」
俺も慌ててポケットを探るけれど、からっぽだ。ハンカチすらない。さっきまで、勝手に仲間にしたくせに、と思っていたのに、俺だけ仲間外れだと思うなり、どっと汗が噴き出す。気にすんなよ、とトモヤが笑う向こうで、おじいさんも小銭を渡していた。
「150円」
「はっぴゃくろくじゅうにえんね。よし」
チヒロは満足げに頷くと、それらをかき集めて壺に戻し、大事そうに蓋をしめた。彼女の腕の中の壺はごちそうをたいらげたあとの犬のように輝いて見えた。
「おにいさんも、かせいだらこのなかにいれてね」
「……うん、わかった」
郷に入っては郷に従え。ノラとは、そういうものなんだろう。他に行くあてのない俺は、素直に従うしかなかった。
ここで暮らしていくのなら。ここで生活していくのなら。
「……あらためて、よろしくな」
「ああ。よろしく」
ダイキの一声に、みんながこちらを向いた。人を疑うことを知らない目。俺のことをもうすっかり仲間だと信じている目。
俺はそれに頷いて、喉の奥に残っていたパンの耳を飲み込んだ。俺の家は、ここになるんだ。
俺も、今日から、ノラになる。
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