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俺は一度だけ彼に訊いた事があった。
「教授は御結婚されないのですか?」
俺の問いかけに微笑みながら彼はこう答えた。
「私の一族には男子にのみ遺伝する病があってね。私はこの病を私の子孫に残したくないと思っている……だから結婚は考えていない」
そう答える彼に俺は、心中の勝手な思慕と好奇心から訊ねてしまった自分を心から羞じた。
「教授、申し訳ありません……」
俺がそれ以上なんと言葉を続ければ良いのか迷っていると、彼はそんな俺に幼子を慰める様な声で話しかける。
「君が気にする事はないよ……これは神が我が一族に課された運命……否、罰なんだ。この地位に上りつめる為に犯した先祖の罪を今、こうして私が受けているだけなのだから」
「教授……」
「私はこの罪で穢れた財産と血を私の代で終わらせようと思い、政界には進まず一族の反対を押し切って、こんな途方も無い研究に身を殉じる道を選んだんだよ」
そう言って微笑む彼の瞳に一瞬、寂しさを感じた。 俺はその後ずっと……その時の彼の愁いを含んだ瞳を忘れる事が出来なかった。
俺は爵位こそは無かったが裕福な家庭に生まれ、 以前から興味のあった生物学を大学で学ばせてもらっていた。大学二年目を迎えた春、俺は彼に出会う事になる。大学の事務室前に貼り出されていた『青い薔薇の研究助手求む』その募集を受けたのが俺だったのだ。
初めて訪れた彼の研究室は甘い香りと春の日差しに包まれていた。薔薇の花に囲まれた彼の背中に俺は声をかける。
「あの……助手希望の櫻井ですが……」
彼は顕微鏡を覗き込んだままの姿で
「事務室から話は聞いてる……今、手が離せないから暫く待ってくれるかい?」
そのまま俺は一時間程その場で待たされる事になるのだが、不思議とその時間を長くは感じなかった。 彼は顕微鏡とその隣に無造作に置かれた資料らしき数枚の紙を交互に見ては独り言を呟き、また顕微鏡を覗き込む作業を繰り返す。そんな彼の横顔をふと見てみたくなり、俺は顕微鏡の置かれた机の隣に立つ。その時、彼の鋭さと優しさを持つ切れ長の瞳に俺の心は一瞬にして奪われてしまった。
「あ!すまない。君の事をすっかり忘れてしまっていた」
突然、隣に現れた影に彼は驚きもせずそう答え、やっと顕微鏡から目を離し俺の方に顔を向けた。
「君が櫻井君か……宜しく頼むよ」
微笑みながら俺の前に右手を差し出す彼に俺の心が小さく震える。
淡い思慕。
この時は自分でも、まだこの気持ちが恋というものだと気付かなかった。
その日を境に大学の講義が終わると、その足で研究室に向かう俺の日々が始まった。
明治時代に西洋から持ち込まれた薔薇。色々な種類や色があるそうだが、未だ青い薔薇はこの世に存在しないらしい。それは青い色素を持つ原種株が発見されていない為、 交配育種法では青い薔薇を作り出すのは難しいと結論付けられており、 それ以外の方法で青い薔薇を作り出す事が柊木教授の研究内容だった。
先ず俺が彼から教わったのは様々な薔薇の品種についてと、その薔薇から作り出される色だった。 今の所、赤い薔薇から赤い色素を抜き出す方法で、藤色の薔薇をうみだすまでは成功していた。 だが柊木教授はこの成功に満足せず『青い薔薇』に拘り続けた。
この研究には気の遠くなるような年月と莫大な費用を要する。その事実を知った時、俺はあの質問を彼にしたのだった。否、その事よりも自分の中の彼への思慕が大きくなっていたからかもしれない。
彼が資産家の御曹司である事は構内の噂で知ってはいたが、彼の口から華族の家柄である事、そして年齢を聞いた時、俺は驚きを隠せなかった。常識的に考えれば彼はこんな所で研究に没頭するような人物ではなく、政界に進むべき家柄と爵位を持つ身。 そしてそれ相当の身分を持つ伴侶がいても良い年齢だったのだ。
全てを知った時、俺の瞳には彼の生き方がとても不自然に映った。そしてそんな彼への思慕が日々大きくなっていく。もしかしたら数え切れない程の美しい薔薇の花に囲まれ、甘美な香りに俺は酔っていたのかもしれない。
柊木教授に出会ってから二年が過ぎた頃、十年以上の年月を費やした教授の研究が実ることになる。
何時もの通り講義を終え、研究室に向かった俺を彼は笑顔と抱擁で迎えてくれた。
「櫻井君、やっと発見したよ!青い薔薇の元となる色素を!!」
そう言いながら俺を抱きしめる彼。 俺は彼の長年の研究の成果が実った事を嬉しく思う反面、『これで此処に来る理由が無くなった』という悲しみが胸を過ぎり複雑な気持ちに駆られていた。
「おめでとうございます」
俺はそう言葉にするのが精一杯だった。俺と彼を引き裂く青い薔薇の色素はシャーレの中で静かに眠っていた。
その後、どうやって自宅まで戻ったのか覚えていない。
暫く自室の中で泣いていたのか頬が濡れていた。俺はもう一度どうしても彼に会いたくなり、 少し肌寒い秋の夜道を研究室まで急いだ。
薔薇の為に温室に施された研究室の扉を俺は静かに開く。研究室は何時も暖かく春の陽だまりの様に優しい空間だった。
「教授……柊木教授……おられますか……?」
奥へと歩を進めると、上半身を机に預け転寝をしている彼の姿が見えた。ここ数日、眠っていなかったのだろう。彼の美しい寝顔に俺はそっと触れる。彼の温もりに指が触れた瞬間、俺の心は激しく震えた。
その時、甘美な薔薇の香りが俺を襲う。甘い香りは瞼を閉じた彼の横にそっと置かれていたシャーレに憎悪を与えた。
俺はシャーレを手に取り地面に投げつける……。割れた硝子の破片が飛び、俺の頬にうっすらと血の線を描く。それと同時にシャーレの中の液体が右目に入った。優しく穏やかな研究室に硝子の割れる音が響き、その物音に彼が目を覚ました。初めは何が起こったのか分からない様子で辺りを見回していたが、やがてゆっくりと地面に叩きつけられたシャーレに視線を移した彼。
「教授……すみません……そんな、つもりでは……」
言葉が浮かばない俺に彼は微笑み、シャーレではなく俺の方へと歩み寄り
「大丈夫かい?」
そう言って心配そうに俺の顔を覗き込む教授。
俺の頬に描かれた赤い傷跡に温かな彼の指先が触れる。
「痕が残らなければ良いが……」
俺を攻める言葉ではなく俺を労わる彼の言葉に、これ以上この場にいる事が出来ず俺は彼の前から逃げだした。
あれから何日が過ぎただろう。ずっと自室に閉じ篭ったまま、俺は自分の愚かさを悔やんでいた。時折、液体が入った右目が疼いた。 その疼きは日を追う毎に痛みを増していく……。あまりの痛みに俺は恐る恐る鏡を覗き込んでみると、そこには青色の瞳をした俺がいた。 その瞬間、恐怖という感情ではなく歓喜が俺を襲った。
「これで柊木教授に償える」
俺は右目を人の目に触れぬ様少し伸びた前髪で隠し、以前大学の実験で手に入れた薬を上着に忍ばせ研究室に向かった。
研究室の扉をゆっくりと開ける。研究室に咲き誇る薔薇の花たちは温かく俺を出迎えてくれた。初めて会った時と同じ、薔薇の花に囲まれた彼の背中に俺は声をかける。
「柊木教授……」
俺の声にゆっくりと振り返る彼。
「教授……」
「君か……ずっと心配していたんだよ。傷は大丈夫?」
青い薔薇の話は口にせず、俺が負った傷を心配する彼。俺はその彼の優しさに居たたまれなくなり涙が溢れ出す。そんな俺を気遣う様に彼は優しく俺を抱きしめてくれた。
俺の涙が止まるまで抱きしめていてくれた腕がゆっくりと俺の頬にかかる髪に伸び、頬の傷跡と俺の右目を見た。
「君、これは……!!」
俺の青い瞳に驚く彼に俺は胸の内を告白する。
「教授……お慕いしておりました。ずっと……。だから……どうか……この目を教授の研究に役立てて下さい」
俺はそれだけ言葉にし、上着に忍ばせていた薬を取り出し一気に喉に流し込んだ。 喉を焼きつくような熱さが襲い、その熱さは全身に広がり倒れ込む俺を彼が受け止めてくれた。
「君、何を飲んだんだ?!」
唇から溢れ出した血を見て彼の顔が悲痛で歪んだ。
「……教……授……俺のこの目を……教授の研……究に……」
「何を言ってるんだ!私の研究などまた一から始めれば済む事だろ!!」
「……い、え……俺が……俺が……悪いんです……」
「君は悪くなんかない!どうしてこんな事を……」
「教……授……お慕、いして……おり……ました……」
俺の青い右目に最後に映ったのは、俺が忘れる事の出来なかった彼の愁いを含んだ瞳だった。
彼の瞳を忘れる事が出来ない。我が一族に課せられた運命の犠牲者。私を慕ってるとその言葉を残し、彼は綺麗な瞳と命を失ってしまった。
私は何の為に生かされてるのだろう? 百数十年、こうして同じ椅子に座り同じカップでコーヒーを飲む日々。 鏡を見る事すらもう何十年も前に止めてしまったが、私はずっと三十代前半のままの姿で生きている。私は『生かされている』という事に抵抗さえ感じなくなってしまった。
自らでのみ命を絶つことが出来る……
だが、私はそれをまだ実行に移していない。
ある日、それは突然やってきた。
それは……私の魂までもが堕落してしまった事に気付いた瞬間だった。
悪魔……否、ヴァンパイアとの契約。
大好きだった叔父。私は誰よりも叔父が好きだった。この研究を始めたのも叔父からの遺言だからだ。叔父は私とあまり見た目では変わらないほど若かったが、間違いなく二十は上のはず……。
初めて訪れた叔父の研究室で私は何故、叔父が歳を取らないのか知った。まだ何も知らない私の首筋と身体に叔父は、ヴァンパイアとの契約の烙印を押した。 叔父によって穢された場所から痛みとは違う、熱を帯びた疼きが私の全てを支配する。全ての行為が終わり、私がぼんやりと温室の薔薇に視線を送っていた時、叔父は一冊のノートを私に渡し温室から去った。
そして叔父はその夜、自ら命を絶ってしまう。
手帳には青い薔薇に関しての詳細なデータが載っていた。 叔父は私に契約をさせてしまった事を悔いていたのだろう。手帳に忍ばされていた手紙に
「何も知らないお前に私の運命を託す事を許して欲しい。私にはもう時間が無いのだ。お前の私への想いを利用してしまう事を許してくれ。私はどうしても青い薔薇を完成させたい。来世でもう一度お前に会えた時、お前が完成させた青い薔薇を私に見せて欲しい」
そう私宛てに叔父の言葉が遺されていた。
この世での契約者はもう私ひとりのなっていた。 先祖から数えて数十人の男子は私以外、全て自らの命を絶ったのだ。
神だと豪語したヴァンパイアとの契約。契約者が望むものを与える代わりに、その身の血をヴァンパイアに与え、また処女の血をも数年に一度与えなければならなかった。例え自らが望んだ富や名声を手に入れたとて、犯罪に手を染めながらも歳を取らず死ねないなど拷問に等しい。
ヴァンパイアとの出会いは未だに詳しく分からぬまま……。きっと欲にまみれた心がヴァンパイアを己が身に引き寄せたのだろう。父すら息子である私に何も告げず、母がこの世を去った日、自らの胸に杭を刺し炎の中へと身を投じてしまった。
この契約に一体、ヴァンパイアに何の得があるのだろう? 疑問に思うのはただその一点だった。まるで契約に縛られた魂を弄ぶのを楽しむだけの様にも感じられたが、本当のところは分からない。
叔父から契約の印を受けた日から私はずっと、青い薔薇の研究にのみ私の上を流れる途方も無い時間を費やした。
そして……あの日がやってきた。
研究室を大学に移した日、自らを神だと名乗る輩が私の元へやってきたのだ。『期限切れだ』と。きっと先祖から継がれ、叔父から私が受けた契約が最期のものだったのだろう。私は
「直ぐにでもこんな契約を切ってくれ!」
そう申し出たがヴァンパイアは
「お前に流れるその血を誰かに注げ。お前が新しい契約を結び、この契約を未来永劫続けていくのだ」
……と唇の端だけを上げて笑いながら言った。しかし私は、このまま期限が切れる事を選んだ。我が一族の最期の一人としてヴァンパイアではなく、神の手を私が選ぶ事でこの馬鹿げた契約と穢れた血を救えるのではないかと思ったからだ。
だが……その前にどうしてもこの青い薔薇を完成させなければ!眠ることも食べることもせず、 ただ研究にのみ打ち込む私にヴァンパイアは姑息な手を使って誘惑してきた。
「教授……お慕いしておりました」
彼の最期の言葉。否……ヴァンパイアの誘惑の言葉。私は自分でも気付かぬうちに、ヴァンパイアの手中で泳がされていたのだ。
私の前で血を吐き倒れこんだ彼を受け止める。
「君、何を飲んだんだ?!」
彼の唇から溢れ出した血を目にし私の顔は悲痛で歪む。
「……教……授……俺のこの目を……教授の研……究に……」
「何を言ってるんだ!私の研究などまた一から始めれば済む事だろ!!」
「……い、え……俺が……俺が……悪いんです……」
「君は悪くなんかない!どうしてこんな事を……」
「教……授……お慕、いして……おり……ました……」
彼の青い右目が愛おしそうに私を見つめていた。私の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じた。
『彼をこのまま逝かせたくない』
ただ、その感情だけが私を支配し始める。私は彼の白い首筋に歯を立てた。そして彼の血を吸う。薔薇の甘美な香りが私を深みへと誘う。
『彼の全てを奪え』
誰かが私の耳元で囁く。真紅の薔薇の花びらが彼の美しい肌に散り、私はその花びらの香りを唇で感じ取る。そして彼の身体に私は罪と穢れを注いだ。叔父があの日、私にした様に……。
「どうした?」
部屋に入ってきた彼の右目は前髪で隠されている。彼は光を無くしてしまった右目を見られたくないと言い、私の前でも髪をかき上げたりはしない。
「まだ終わらない?」
笑みを浮かべながら訊く彼は、あの時と同じままの姿で若々しく眩しかった。
そう……私を慕い自分の命を懸けた彼に私と同じ運命を背負わせてしまったのだ。
あの時、彼は言った。聞き取るのが難しい程、小さな声で『教授……あなたと運命を共にしたかった』と。彼の命を助ける為にはヴァンパイアとの契約を実行するしかなかったのだ。叔父と同じく私も又、自分の勝手な想いの為に彼の血を吸い、彼を抱いた。私は彼に罪と穢れを注いでしまった。 痛みで苦しむ彼を……彼の身体を容赦なく犯したのだ。私の中に彼を想う気持ちは確かにあった。彼を見ているだけで私は幸せだった。私の穢れた血を忘れてしまう程に。
「何か飲むかい?」
「俺は紅茶が良い」
「ダージリンでいいか?」
「うん」
「では、私が……」
「ほら、また私って……。教授、今は令和なんだよ?私じゃなくて俺!それに一応自分の年齢も気にしなよ……分かった?」
そう言って笑う彼を見るだけで、不思議と罪悪感は消え私の心は満たされる。彼と共に過ごした100年余りは単調ではあったが幸せだった。彼のおかげで研究は格段に進んだ。しかし薔薇の花となると未だに自分が思う色には程遠かった。
『青い薔薇』
決して誰にもあの色は出せやしない。例えヴァンパイアと契約をしたとしても……。
彼の瞳から取り出した色も年月が経つうちに色褪せてしまった。こんな色では叔父にはまだ認めてもらえないだろう。目を犠牲にした彼に申し訳なさはあった。だが彼が傍にいる。それだけで私には十分だった。
「教授……」
「ん?」
「俺はあなたが欲しかった」
光を失った筈の彼の右目が前髪越しに私を見ていた。私はその視線に一度だけ会ったヴァンパイアを思い出す。
「ヴァンパイアとの契約……それは俺と永遠の時間を旅をすること。俺はずっと共に生きてくれる人を捜し求めていた。それは……あなただった」
「やはり……そうだったか……」
どうやら私は知らぬ間にまんまと罠に嵌ってしまっていたらしい。
そう……彼こそがヴァンパイア自身だったのだ。
だが……もう今はそんな事どうでもいい。彼が何であれ、私は彼を愛してしまった。この事実は歪められる事は無いのだから。
「共に生きよう。君が望むまま……私は君のものだ」
私の言葉にヴァンパイアは微笑み、私の首筋に軽く歯を立てた。
END
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