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1. それ、万引きですよ
水性ボールペン黒、0.5ミリ、替え芯。
とっさに掴んだその腕は、パーカーの上から見える以上にがっしりとしていた。
「あの、今……」
ぱっと目を上げると、学生バッグの外ポケットに「それ」を差し込もうとしていた人物と、ばっちり目が合った。
「や……まとくん?」
その瞬間、彼は私の腕を強引に振りほどいた。雑に「それ」を陳列棚に戻し、何事もなかったかのように文房具店の外に出た。
「ありがとうございました~」
レジの奥から店員の呑気な声が聞こえる。いや、ありがとうじゃないでしょ!!
私は冷静に戻ると迷わず外に飛び出した。
目の前を走る生徒――同じクラスの村上大和くんも、部活には入っていないはず。
それなのに、信じられないほど足が速かった。
走り出したのは私が店を出てからなのに、驚くほど差を付けられた。
追い掛けて、追い掛けて、それでも追い付かなかった。
廃れたシャッターが並ぶ商店街で、追い掛けっこをする私たちの時間だけが、生きていた。
ああ、もう、いいや。
赤信号で立ち尽くした私は、荒い呼吸を整えた。
大和くんを追い掛けて、何になる? 説教をする? 正義を叫ぶ?
いや、そんな度胸も根性もない。
人生、赤信号ばかり。偉い人間なんかじゃない。
ぱっと信号が切り替わった。
一斉に車がのろのろと動き出し、私も横断歩道を歩いて渡り始めた。
白と黒が交互に並ぶアスファルト。その先に、彼はいた。
「なんで、いるの?」
凛とした声。予想外の一言に、言葉が詰まった。聞きたいのはこっちだ。
「11時15分。遠山さんって今、学校にいるはずじゃないの?」
「ほっといてよ」
乱暴な言葉が口から零れた。鼓動が乱れているのは、きっと走ったせいだ。
シャッターの前で、光のない黒い瞳が、じっと私を見つめる。
赤茶色に染めた髪は、少しも汗に濡れてなどいなかった。本当に、さっきまで何事もなかったかのように、涼しい顔をして、彼はただそこに、立っていた。
「じゃあ、俺のことも、ほっといてよ」
自嘲ぎみな、冷ややかな声だった。
「先生とかに、言えばいいよ。俺が何しようとしていたか、言えばいい。君、それで、満足なんだろ?」
悪いことをしようとしたのは明らかに彼なのに、ちょっとした一言で倫理観が揺らぐ。
私の悪い癖を、どうしてか、彼は知っている。
「遠山さん、俺のところに来るまで、絵の具のコーナーを見てたよね。絵描くの? すごいね」
「すごくなんかない」
茶色と黒色と緑色を混ぜたような、苦くて汚れた感情が噴き上がる。
筆はもう持たないと決めた。
それなのに、どうして、私の方が追い詰められているんだろう。
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