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青のルフラン
午前10時。オープンの看板を出しに行ったらポツ……と水滴が頬を打った。
「あ」
どんよりとした灰色の雲からポツ、ポツと雨が落ちてくる。空を仰いで1つ2つと数えているうちにその間隔が短くなってきた。宮下あおいは花壇に咲いているデイジーを1輪摘むと慌てて店へと入る。
やっぱりね。
あおいは心の中で呟いた。朝から鈍い頭痛があったのだが、ここにきてはっきりと感じられるようになってきた。あおいの頭痛はどの天気予報よりも正確に雨を知らせてくる。的中率100%だ。古民家を改装したブックカフェにはペパーミントの香りが満ちている。胸いっぱい吸い込むと少し痛みが和らいだように感じた。
「今日は雨降らないわよ。朝天の颯太くんが0%って言ってたし。荷物になるでしょ」
今朝、傘を持って出勤しようとしているあおいを見かけた母がこんなことを言った。颯太くんとは朝の天気予報を担当しているアナウンサーだ。爽やかなわんこ系男子で若い子はもちろん、おばさまたちにも人気で、最近はどの番組にも出突っ張りだ。あおいは片眉を上げた。颯太くんだか何だか知らないが、母があおいの頭痛レーダーを疑うとは。
「頭痛いし」
頭痛の一言に母は顔を顰めた。あおいの偏頭痛はひどく、薬が手放せないことを知っているからだ。
「颯太くんだろうがひまわりだろうが私の頭痛レーダーには敵わないね。私は頭痛を信じる」
「こんなに晴れてるのにい?」
初夏の朝。ビルとビルの合間にのぞく青空は爽やかでピカピカと輝いて見える。
あおいは恭しく頷いた。こめかみに鈍く打ち付ける痛みがそう告げているのだから間違いない。それに雨が降るなら絶対に店を休む訳にはいかないのだ。
「ま、お母さんが信じなくても雨降るから」
あおいは勢いよく晴雨兼用傘を広げた。
店に入り、外の花壇がよく見える窓辺の席にデイジーを生ける。窓辺の席から庭の紫陽花がよく見えた。紫色の紫陽花を雨が濡らしてゆく。あおいはしばらくぼんやりと雨が降る様子を眺めていた。チーン……と古い時計が10時半を告げるベルを鳴らした。あおいはハッとすると慌ててタウンターに入り、自分のためにカモミールティーを入れ始めた。お気に入りのマブカップが優しい黄色で満ちてゆく。フワッと甘い香りが鼻先を掠めた。少しずつ頭痛が解けていくような気がする。マグカップを持ってフロアに戻ると、窓際の席に男性の姿があった。
「もーいつの間に」
それまで外を眺めていた男性が振り返った。黒のジャケット。捲った袖から透き通るような白い肌が覗いている。同じく黒のスキニージーンズに包まれた足は細く、まるでキリンのようだ。これほどハイチェアに座るのが絵になる人はそうそういないだろう。
「だって雨じゃん」
あおいの声に男性は嬉しそうに答えた。「だって」の脈絡がわからない。
「また事務所抜け出して」
「こんな雨の日に誰も来ないって。あおいのトコだって俺だけじゃん。売り上げに貢献しにきたんだよ? 雨の日はお客さん来ないじゃん」
「うちは今、開けたばかりですー」
お約束のやり取りに思わず吹き出してしまった。
「翔真ブレンド?」
「うーん。今日はあおいと同じのにしようかな。あったまりたい気分」
翔真が一輪挿しのデイジーを突きながらオーダーした。
「可愛いね。あおいにピッタリ」
「私じゃなくてこの空間にでしょ」
照れ臭いのでそそくさとカウンターに引っ込む。本当なのにとブツブツ言っているのが聞こえたが、聞こえないふりをした。あおいはカモミールティーを淹れながらカウンター越しに窓際の翔真を見た。物憂げに雨の庭を見つめる様子はまるで外国の映画のようだ。小鳥遊翔真はブックカフェの隣にある建築事務所に務める建築士だ。祖父、父共に有名な建築士で、翔真もその後を追うように建築士になった。優れた先代と比べられるプレッシャーはどこ吹く風。彼もまた優れた感性で注目の若手として将来を嘱望されている。実際いくつもの賞を受賞し、親の七光では片付けられない実力を示している。いろいろあるのだろうが、あおいの前では子供の頃から知っている甘えたで飄々とした翔真だ。
「お待たせ」
「うーん。いい香り」
翔真は目の前に置かれたカップから立ち上るカモミールの甘い香りを胸いっぱい吸い込むと、あおいの手を取り、あおいのマグカップから一口飲んだ。
「ちょ……何してるの!」
「だってまだ熱いじゃん。あおいのが飲み頃」
「もー!」
猫のような勝手気ままな振る舞いもいつものこと。口を尖らせるあおいを見て面白そうににっと笑うと、今度はチュッと音を立てて口づけしてきた。
「し……信じられない!」
真っ赤になるあおいの様子が面白いらしく、今度は声を上げて笑いだす。3つ年上とは思えない振る舞いだ。
「だってあおいが可愛いんだもん」
「30過ぎの男がもんとかいうな」
「あー偏見だめー」
「うるさい」
幼馴染という関係が変わったのはいつの頃だっただろう。はっきりと思い出せないほどあまりにも当たり前に隣にいた。親たちは結婚、入籍とせき立ててくるが、あおいと翔真にとって書類上の繋がりは今の所大きな意味を持たない。子供ができた時に考える事になるだろうが、その頃に夫婦別姓が認められているといい。同じ気持ちである事が嬉しかった。
「ね。あおいに雨が映ってる」
翔真が手を重ねてきた。2人の手に窓についた雨粒が青く映っていた。
「そろそろおじさんが呼びに来るんじゃない?」
「あーかもな。今日、現場に行く予定なんだ。雨だから無しになるに100万点かける。なあ、それよりもさ」
翔真が何か言いかけたところでカランコロンとドアベルが来客を告げた。
振り返ると黄色いカッパを来た子供と女性が立っていた。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
あおいは反射的に挨拶した。冷たい物言いに聞こえなかっただろうかと思う。初めてくるお客さんだ。子供がキョロキョロと店内を見回している。
「最近越してきて。気になってたんです」
母親が子供のカッパを入り口のコートハンガーにかけながら話した。
「そうなんですか。嬉しいです。店内の本はどれもご自由にお読みいただけますし、購入もできます。絵本はあのコーナーに」
メニュー片手にざっとカフェの案内をする。
「ママ。あそこに座りたい」
子供が、さっきあおいがデイジーを生けた窓際の席を指差す。
「あー……そこは」
一輪挿しの前のマグカップが湯気を立てていた。あおいが言葉を発する前に母親がたしなめた。
「別のお客さんが使っているのよ。それに椅子が高くてまだちーちゃんには座れないかな」
「えー。外見たい」
「奥のソファー席からも庭が見えますよ。ちーちゃんっていうの? 絵本を広げても大丈夫なテーブルがあるからちーちゃんも気に入ると思うな」
子供はパッと表情を輝かせ、母親の袖を引いた。
「奥のソファー席にします。あ。その席、予約席なんですね」
母親が窓際の席を見て言った。一輪挿しとマグカップの間に「予約席」と書かれた小さな木札が立っている。あおいはにっこりと笑って奥の席へと案内した。
古民家のブックカフェにしとしとと雨が降る音と、たどたどしく絵本を読む子供の声が聞こえる。あおいは窓際の一輪挿しのある予約席に行くと、すっかり冷めたカモミールティーを飲み干した。熱を失った黄金色の液体が喉を通り、体の中に収まるのを感じる。
3年前の雨の日。現場に行く前にブックカフェに寄った翔真はいつものブレンドコーヒーではなくカモミールティーを頼んだ。お茶を飲む前に父親が迎えにきて、気をつけてねとこのドアから送り出した。いつもと同じ。いつも通りに翔真が帰ってくると思っていた。誰がスリップしたバスに巻き込まれて死ぬなんて思うだろうか。
雨が降るとこの席に翔真が帰ってくる。窓から見える風景は季節によって変わるけれども、同じやりとりが3年前のあの日から繰り返されている。
「今日、現場に行く予定なんだ。雨だから無しになるに100万点かける。なあ、それよりもさ」
あの日が繰り返されるたびに、行かないでと引き止めたら別の結果があるのだろうかとあおいは思う。引き止めようと思うのだが、壊れたDVDのように毎回同じやりとりを繰り返してしまう。別の結果を願うあおいが生み出す妄想なのかもしれないとも思う。悔やまれるのはあの時翔真が何を言いかけたのか知る術がもうないことだ。雨の日は戻ってこない時間を思い知らされる。だが待ってしまうのだ。雨の日に、ほんの少し自分の元に帰ってくる愛しい人を。悲しい現実に打ちのめされようとも、何度でも雨が降るのを待ってしまうのだ。
マグカップを持つあおいの手に、窓を流れる雨の影が青く映っていた。
了
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