偏頭痛持ちの宰相と近衛兵

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偏頭痛持ちの宰相と近衛兵

 決して権力にのまれてはいけないよ。力は人を狂わせる。  冷静な眼で見て、謙虚に振る舞いなさい。  そうすれば神様が正しい道を示してくださるから。  亡き父が、私がまだ幼いころに繰り替えし言って聞かせた言葉だ。  今の私のままならない状況は、父がたとえ健在であっても打ち明けることはないだろう。だが、もし彼がこのような事態に陥ったら……いったいどうするだろうか。 「王子の執務室に入っちゃダメってどういうこと!」  ひどい寝不足のせいで痛む頭を押さえ目を瞑っていたら、一瞬で眠りに落ちてしまったのか幼いころの記憶が蘇ってきた。だがノックもせずに扉を開けて響いた甲高い声に、乱暴に意識を引き戻された。 「執務室に入れるなって命令だしたの……あなたでしょう! なんで私が締め出されなきゃいけないのよ!」  ふっくらした頬をさらに膨らませた美少女……南の同盟国の第三王女、ルシアール・ベレルース王女……は眦を釣り上げた。彼女が南方の同盟国から『留学』してきたのは1ヶ月ほど前のことだ。  さぞ愛されて育ったのだろう、天真爛漫な性格。なめした革のようなすべらかな肌に、甘い香りのする伸びやかな肢体。10代だというのに、どこか蠱惑的な眼差し。だが笑顔は大輪の花のように無邪気で明るい。  見る者をことごとく魅了するこの少女がこの国にやってきてから、私……セノウ・ニヒシュタインが宰相を務めているこの国はだいぶ落ち着きを失っていた。 「殿下は外せない執務をなさっています。時間が空き次第お呼びしますよ、ルシアール王女。」 「午前中からずーーっとそうじゃない! もー、いつになったら終わるの? この間まで、ずっと一緒にいてくれてたじゃない!」  そう。この寒い国にはいないタイプの、明るく可愛らしい王女に、王子も侍従長も神官も騎士団も、ことごとく骨抜きにされてしまったのだ。  政務を放り出して彼女と遊びほうける王子。王宮内のルールを無視して、彼女のために予算を割く侍従長。女人禁制の場所を、彼女の『見てみたい』の一言であっさりと開け放つ神官。訓練も放りだして後をついて回る騎士団。  たった1ヶ月で、王宮の中枢はグチャグチャになった。  それを何とかしようと、とりあえず彼女を王子の執政室には入れないように指示したのだが……それもいつまでもつだろうか。  どう追い払おうかと思案していると、開かないでほしかった私の部屋の扉が、重たい音を立てて開いた。 「ルシアール王女、あまり私の宰相を困らせないでくれ」 「あ、リカルド王子!」 「待たせてしまって済まない。急ぎの書類は終わらせたから、どこへでもエスコートしよう」  豊かに輝く金髪に海のように深く蒼い瞳。完璧な美貌と謳われる、生粋の王子様。神に愛された美貌を誇る我が国の第一王子、リカルド・アルクトゥルス殿下がにっこりと笑って登場した。  ああ。あとこれで頭の中身が完璧だったら。そう思いながら私はのろのろと自分の机から立ち上がった。 「恐れながら殿下……2時間後には謁見の予定が入っております。どうか御考え直しを」 「謁見の予定? それを何とかするのがお前の役割だろう?」  邪魔された不愉快さを隠しもせず、王子は眉毛を器用にあげて見せた。だが私だって引くわけにはいかない。(まつりごと)は、王侯貴族の義務だ。王族の怠慢が跳ね返るのは、彼自身ではなく国民なのだ。 「先週もそう仰って、今週の予定を組みなおしたばかりです。すでに代理で済ませられるものは終わっております」 「む……」  不満を隠そうともしない謁見者をなんとか宥めて丸め込み、なんとか短い時間で済ませられるように調節するのは苦心した。だが黙り込んだ王子に、ルシアール王女は不満のようだった。 「もー、本当に宰相さまってイジワルね! そんなんだから、冷酷って呼ばれちゃうのよ?」  いじわるで言っているんじゃない。冷酷だって、好きでそう冷たく振る舞っているわけじゃない。冷酷な仮面をかぶって処理しなければいけないことが、国には山積みなだけだ。無駄に寒いこの国では、どこぞの南国と違って豊かな実りなど望めない。のん気に歌だ踊りだ芸術だなんて言っていたら、この寒くて暗い国ではあっという間に凍え死んでしまう。そう喉元まで出かかったが、なんとか奥歯を噛みしめて飲み込んだ。宰相自ら国際問題を起こしたら笑い話にもならない。 「国のためです。どうぞ王女、ご理解を」 「いいわ! じゃあウィラード、一緒に行きましょう。遠駆けにいきたいの!」 「……わたくし、ですか?」  王子の後ろに、影のように控えていた青年が、突然 王女に名を呼ばれ困ったように声を上げた。  柔らかいブラウンの髪と、同じ色の瞳。騎士のはずなのに温和そうな顔立ち。だが鎧の下の体は鍛えてあるらしく、上背があり、すっと背筋が伸びて上品な佇まいをしている。よく躾けられた番犬を想像させる男に、王子は仕方がないという風に首を縦に振った。 「……よい、ウィラード。連れて行ってやってくれ。くれぐれも怪我などさせるなよ」 「御意。では王女、こちらへ。すぐに馬を用意させましょう」 「ええ。リカルド王子も終わったら遊びましょうね!」  ウィラードと呼ばれた近衛兵は、一瞬だけちらりと視線をこちらに投げかけるが、すぐにルシアール王女を柔らかくエスコートして退出した。  華奢な王女を守るようにして連れ立つ騎士。王女も、さきほどまでの不満など忘れたように素直について歩いていった。一枚の絵画のようにお似合いだ。 ……その姿に胸が鈍い痛みを訴えたが、気が付かないふりをする。 「では、殿下は書類の続きを。急ぎの物は終わらせていただいたようですが、本日分の物はまだまだございますので」 「謁見用の資料は?」 「すでに執務室へ届けてあります」  胸の痛みを無視したまま、リカルド殿下を執務室に再び送り返す。王女がにぎやかに廊下で笑う声が聞こえないよう扉をきつく閉めて、再び書類に目を走らせる。私にはやるべき仕事があるのだ。そのためだけに今までまい進してきた。こんなところで時間を取られている場合じゃない。 ……そう思っているのに、さっき見た光景が眼の奥でちらついて、なかなかペンが進まなかった。 「セノウ、顔色が悪いぞ」  一心不乱に紙の山と格闘しているうちに、陽が落ちかけていた。いつの間に入って来ていたのか、第二王子のレグルス様が呆れたような顔で目の前に立っている。集中しすぎるのも時としてマイナスだ。周りが見えなくなる。 「体調が悪いなら無理をするな、休め」 「……ご心配いただきありがとうございます。ですが、」 「ああ、分かっている。予定がずれまくって採決が山積み、決裁書も山積み、臣下の不満も山積みなんだろう? そして手際が悪いとお前の評判も下がりっぱなしだ。さぼっているのは兄上だというのにな!」  冷静なレグルス様にしては珍しく、イラついた様子で乱暴に椅子にどっかりと腰かけた。    レグルス様は、第二王子で私よりも3歳若い。第一王子のような派手な美しさはないが、銀に近い金髪を持った美しい王子だ。それに誰より頭がよくて勉強家で真面目。そして何故かは分からないが、なにかにつけて私に気をかけてくれている。身分差こそあれ、私の唯一の友人と呼べる人だ。 「このままではいずれ父王の目に付く。兄上はもともと単純な方だが、もうすこし賢く立ち振る舞えると思っていたんだがな。あの隠そうともしない怠け方では、庇いきれない」 「殿下、お言葉にはご注意を」 いくら私の執務室のなかと言えど、どこで聞かれているか分からない。 だが殿下がため息とともに吐き出した言葉に、私は黙りこむしかなくなってしまった。 「もう少し賢いと思ったのは、お前の恋人にも言えることだけどな」 「……それは」  そうなのだ。私は3ヶ月ほど前から……信じられないことに男であり近衛兵の……ウィラード・ブラウンフェルズと恋人関係にあるのだ。  一言で言うとそうなる。だが、そこに至るまでの経緯はやや私にとっては複雑だった。  私は代々宰相をつとめる一族の二男として生まれた。長男である兄は、ペンより剣が好きで、騎士団に入団してしまった。そこで、私が王立学院を飛び級で卒業し王宮に上がり、18歳からわき目も振らず仕事にまい進した。その努力のおかげか、父が倒れた時、まだ30歳にもならないというのに、異例の若さで宰相の地位を継いだのだ。  そして近衛としてリカルド王子殿下のもとに配属されたウィラード・ブラウンフェルズに会った。  私のもとに配属の挨拶に来た彼は、私が冷酷、冷淡、冷血漢、と言われていることを知らなかったらしい。初対面の私の目をまっすぐ見て『宰相の補佐官の方ですか?こんなにお若いのに優秀なんですね』と微笑みかけたのだ。  その柔らかな微笑みに、頭を思い切り殴られたかのような衝撃を受けた。それが私の生まれて初めての恋だった。  それまでに恋人がいなかったないわけじゃない。だが、こんなにも心が揺さぶられたのは初めてだった。今まで付き合ってきた人の顔すら思い出せなくなるほど、彼は私にとって衝撃的だった。  彼の姿を見れただけで天にも昇るような気持ちになり、彼が女性と付き合っていると噂になるたびにこの世の終わりのような気になった。熾火のような熱が体を焦がし、何をしてても彼のことが頭に浮かぶ。  目にすると幸せなのに、いざ話しかけようとすると言葉がでてこない。彼の目に映っていることが異常に恥ずかしくなり、相手は職務で王子の執務室に詰めているのに、避けてしまう始末。  私は二男で彼は三男。家督を継ぐ必要はないし、貴族ならば同性愛だって今はそれほど少なくもない。だが普通の男であれば、将来は家庭が欲しいだろう。  しかも私は彼より年上の男で、お世辞にも整っているとは言えない外見だ。火遊びの相手にすらならない。そう思って死ぬまでこの思いには蓋をしておくつもりだった。  だが、神の奇跡か悪魔の罠か。ある日私の偏頭痛に効くかもしれないと、ウィラードが薬草を持ってきてくれて。さほど親しくない自分にも気を遣ってくれることに感動し、思わず「お前のようなマメな男の恋人は、さぞ幸せだろう」と口走ってしまった。そうしたら驚くことに、彼の返事は「だったら、私の恋人になってみませんか?」というものだった。そして私は彼の恋人の座に収まってしまったのだ。それが3ヶ月ほど前のこと。  それからは天にも昇るような気持ちだった。生まれて初めて恋に酔うということを知った。……色々とこの国が揺れる、ルシアール王女が現れるひと月前までは。 「あんなワガママ女に堕ちるなど、頭の軽い兄上だけで十分だと思っていたんだがな」  そう。たしかに3ヶ月前に付き合おうと言われたはずなのに……彼はあの愛らしい王女様に惚れてしまったらしい。  私の前ではいつも少し緊張したような彼の瞳が、彼女に向かうときは柔らかく光る。愛おしいものを見るかのように。まるで私に隙を見せまいと引き締められている頬が、彼女には優しく緩む。そのことに気が付いたとき、大事なものが足元から崩れていく気がした。彼は私に恋をしていないのだと、その時にようやく気が付いたのだ。最近では二人で連れ立って庭園を歩く姿がよく見られるそうだ。もちろん私とは散策なんて行ったことがない。時折、私が私室に呼び出して酒を飲むだけだ。別にか弱い乙女のようにエスコートされたいわけではないが、対応の違いに胸が痛んだ。 「彼女はお美しいですし、彼は若く、同性愛者でもありません。しょうがないことでしょう」 「美しい?私にはお前の聡明さの方がはるかに私には美しいし、軽薄さを若さと呼ぶなら若さなんて価値がない」 「……ありがとうございます」  お世辞を言わないレグルス様だ。相当に心底、あの王女が嫌いなのだろう。とげとげしい言葉に苦笑するが、暖かい言葉に少し救われた気分だ。 「相手が王女では結ばれることはまずない。王女が国に帰れば関係も終わるだろう。いくら優秀でもブラウンフェルズはただの貴族の三男坊で身分は騎士だしな。……だがそれまでお前は指をくわえて見ているつもりか? 自分の男が他の女をチヤホヤと世話するところを?」  先ほど見た光景にふたたびズキリと胸が痛む。顔を俯けると、レグルス様がゆっくりと近づいてきて柔らかく肩に手を置かれた。 「セノウ。お前は強く冷静だと誤解されやすい。だが思いやりがあって優しいし、引っ込み思案で弱い部分もある……別の相手を選べばいいだろう」  引っ込み思案で弱いだなんて、この王子殿下以外に言われたら 反発していただろう。 だが今はまさにその通りだ。  今だって、ウィラードが突如として彼女への想いを断ち切って、私に戻って来てくれることを願っている。『あれは勘違いだった』とでも言って抱き寄せてくれないかと思っている。なにもせずにそんな都合のいいこと、起こるわけないというのに。 「そうですね……そろそろ潮時かもしれません」  絞り出すように放った声は、かすれて消えそうだった。愚かにも見ていた夢から覚めるときがきたようだ。  私のほうが年上だし、死ぬまで一緒にいてくれとは言わない。いずれは今まで貯めこんだ金でどこかに館でも買って譲ろうと思っていた。一緒に住んでくれなんて言わない。そこに女と住んでもいい。歳を重ねて、あちらに子供ができても偶に私のところに話でもしに来てくれれば、と。  私に遺産などあっても継ぐ者なんていないだろうし、気前のいいパトロン気分でも味あわせてもらおうと思っていた。彼も貴族で別に薄給というわけじゃないが、こんな面白みのない男と付き合う見返りくらいあってもいいだろう。そんな穏やかな未来をうっかり思い描いてしまったけど……バカな話だ。 「恋に溺れるなんて、愚かですね……」 「愚かなのはあちらの方だ」  レグルス様の暖かい手が慰めるように背中をさする。その柔らかい仕草に、ようやく、自分はこのひと月のあいだ辛かったのだと気が付いた。  しょうがない事をいつまでもグダグダと悩んで時間を潰すのは、自分にとっても相手にとっても時間の無駄。人生の浪費だ。待ったところで結果は同じなのだから。    そう何度も自分に言いきかせてようやく決意して、ウィラードを呼び出すことにした。  2人の関係がばれる可能性を思ったら、手紙も言付けもできない。王子の執務室に入る直前、書類を落とすふりをして警備をする彼に少しだけ近づく。 「今夜、私の部屋に」  彼にだけ聞こえるよう短く告げると、一瞬だけ彼の気配が揺れたような気がした。  まさか今夜は彼女と会う予定でもあったのだろうか。おもわず浮かんでしまった考えに、気分が地の底まで落ちていくのを感じる。全て今日で終わらせるというのに、どうやら私は思った以上に往生際が悪いみたいだ。それでも彼が小さく頷くのを確かめて、ただひたすら目の前の執務をこなした。  宰相には王城内に私室が与えられている。非常時には泊まり込みになって帰れないことを想定してあるのだろう。寝室、客間、バスルーム、広くはないが書斎もあってなかなか快適だ。街に私邸もあるが、いちいち馬車で移動するのが面倒でしばらく帰っていない。  メイドの手で綺麗に整えられた客間で待とうかと思ったが、どうも落ち着かない。顔でも洗おうかとバスルームの鏡に向かって……私は息をのんだ。  青白い無表情な顔の男。  寝不足で落ちくぼんだ目。  眉間にはうっすらと皺がよっていて、口角は不機嫌そうに下がっている。  ……まるで冷酷な死神のようだ。  いつも最低限の身だしなみを整えるだけで、それ以上に気を遣ったことなんて長くなかった。なんで今まで気が付かなかったのだろう。魅力どころか、もう弾けるような若さもない、そんなことは分かっていたはずなのに……。それどころか、自分はいつの間にかこんなに小汚い男になっていたとは。脳裏に絵画のように美しい2人の姿が浮かぶ。よくこんなみすぼらしい姿を晒せていたものだ。  そう思ったらなんだかおかしくなってきた。  彼と付き合っていたのは、3ヶ月だけ。その3ヶ月で2人で会えたのなんて両手で数えられるほど。部屋に招いて、友人としておかしくない程度の距離で食事をして、酒を飲んで語らって。私は緊張していつも酒を飲み過ぎてしまっていたが、彼は遅くなり過ぎない時間に帰って行った。それは彼が礼儀正しいからだと思っていたが……こんな年上の醜い男に迫られても、迷惑なだけだ。  王女に盗られたかのように思っていた。でも本当はそうじゃない。私と付き合っていたことが何かの間違いで、彼は美しい女性と付き合うのが正しい。私に請われて付き合っているそぶりをしただけだ、ようやく気が付いた。彼は私に恋をしていなかった。それは王女が現れなくても同じだったのだ。 「馬鹿だな、ウィラード……嫌だったらそう言えば、それ以上つきまとったりしないのに」  そう呟いて、馬鹿は自分だと思った。自分だって上司に迫られたら、上官命令だと思うだろう。 断れば出世に響く、と。  彼は近衛兵で、私は宰相。優秀な彼はいずれ出世して私と対等な立場になるかもしれないが、今はまだ歴然とした権力の差がある。  権力がある自分が慮らなければいけなかったのだ。若く美しい彼に自分が釣り合うかどうかを、冷静に考えておくべきだった。彼が「恋人になりますか」と聞いたときに、「面白い冗談だ」と笑って返しておけばよかったんだ。なにを馬鹿正直に喜んでいたんだ。そうすればこんな茶番を演じることも、あの王女に必要以上に振り回されることもなかった。  結婚していてもおかしくないようなこの歳で、私の初恋は手すら握らないまま終わってしまった。  気がついた事実に、眩暈を感じて長椅子に倒れこんだ。もう数刻もしないうちにウィラードがやってくる。酒でも煽ってしまいたい気分だが、今酔っぱらったら何をしでかすか分からない。  捨てないでくれと泣き喚いて縋って、権力を盾に抱いてくれと迫る?そんなことをするくらいなら喉を突いた方がマシだ。 「ただ一言、もういいんだと言えばいい。それだけのことだ」  それで二人の間の細い絆は切れるだろう。触れ合うどころか、私的な視線を交わすこともなくなる。思い描いていた未来図は消え去って、私は再び国のために身を尽くすだけだ。それでも、ひと時だけでも舞い上がるような幸せを与えてくれたのだから、感謝するべきなんだろう。その分 落ちた今が痛いが、初めての恋に盲目になっていた私の自業自得だ。  思わず目頭が熱くなるが歯を食いしばって堪える。いい年をして、これぐらいのことで。ただの勘違い。何も始まってすらいなかったじゃないか。  その時、ごく控え目にノックが響いた。寝椅子から起き上がるのも面倒でそのまま『入れ』と細く声を上げる。  するりと室内に入ってきたウィラードが、寝そべったままの私に驚く気配がする。ウィラードの前ではだらしない格好を見せないように気を遣っていたから、こんな姿をみせるのは初めてだ。だがもう取り繕うのも億劫だった。 「セノウさん、お休み中でしたか?」  プライベートでは下の名前で、と言い出したのはウィラードからだった。重たい体を持ち上げる。 「いや……遅い時間にすまなかったな」 「いいえ、明日は休みですので」 「掛けてくれ」  寝椅子に近づいてくる気配に、応接用に置いてある椅子を指さす。幸い室内は薄暗いし、少し離れた場所なら情けない顔も見えないだろう。 「疲れてるようでしたら、そのまま横になっていてください。なにか飲むものを用意しましょうか?」 「いや、いい」  本当は布団をかぶって寝てしまいたいが、そうもいかない。もし今を逃したら、臆病な私はきっとずるずると決着をつけるのを先延ばしにするだろう。どうあがいても結末は変わらないというのに。 「……ウィラード、単刀直入に言う。今夜限りで、お前との私的な関わりはなくそうと思う」  私的な関わり、なんてバカな言い回しだ。だが『別れてくれ』というほど2人の関係は深くなかった。本当は友人としてたまに話くらいしたかったが、私と友人になるメリットは、彼にない。話は終わったとばかりに寝椅子から腰を浮かせようとすると、目を丸くしてまだ座ったままの彼が目に入った。  ……どうしたんだろうか。私の頭の中では、彼はいつもの笑顔で晴れ晴れと『分かりました』と言って退出する予定だったのに。そうすれば今夜の王女との約束にもまだ間に合うかもしれないというのに。 「……セノウさん?それは、どういう意味ですか?」 「そのままの意味だ。ああ、手切れ金が必要か?言い値で出そう。いくら欲しい?」  そうか。それなりに金や権力がある人間が関係を清算するときには、ある程度まとまった金額を渡すものらしい。彼を愛人のように思ったことも扱ったこともなかったが、もしかしたら常々もっと金品を与えておくべきだったのだろうか。それなら悪い事をしたと思って口を開くと、怒ったように彼が眦を釣り上げた。 「違います! どういうことですか?」 「違うと言うと……出世のほうか? それも心配しなくていい。近衛団の団長とは付き合いが長い。それとなく根回ししておこう」 「……っ!セノウさん、どこまで本気で仰っているんですか!?」  いつも穏やかな笑みを浮かべていたウィラードが、凄みのある視線で射抜いてくる。初めて見る表情に、場違いだと思いつつも胸が高鳴った。ああ、やはりどんな表情でも彼は美しい。もう今夜で彼を間近で見るのは最後だけれど、どうせなのだから彼が私に求めていたことを叶えたい。金でも権力でも婚姻の相手でも。何を求めて私との茶番に付き合ったのか、教えて欲しい。彼の答えがどれほど私の胸を引き裂いても、それでも役に立てることが喜びにつながるのだから。 「ウィラード、おまえとは無駄な腹の探り合いはしないつもりだ。他に何か条件があるなら、言ってくれ。できるだけ善処する」 「条件……? 私と別れる条件ってことですか?」  別れる。彼の中で、一応付き合っていたことになっていたのか。驚きと小さな喜びに目を見張っていると、ウィラードは片頬だけを釣り上げて笑みのような形をつくった。 「……じゃあ、俺ももう優しい男のふりをするのはやめましょう」  そう言うとウィラードは大股で寝椅子まで近づき、片手で私を抱え上げた。 「……っな!?」  そのまま寝室へ続く扉が乱暴に開けられる。彼と違って鍛えられていない軟弱な体は、あっさりとベッドの上に放り投げられた。大きな体が覆いかぶさってきて、かつてない近い距離に心臓が破裂しそうになる。 「王子ですか? それともレグルス殿下?」 「……なにがだ?」 「俺と別れるように、あなたをそそのかした相手です」 「そその、かす?」 「ええ、そう言えば今日はレグルス殿下があなたの執務室に入ったきりなかなか出てこなかったらしいですね。小姓がヤキモキしていましたよ。俺もイライラさせられてましたけど」  耳元で低い声でささやかれて、体が無意識にぶるりと震える。冷たいものが背筋を這い上がるような感覚に気が付かないふりをして、ウィラードを睨む。 「レグルス様は、私をそそのかすような真似はしない」 「へぇ……、それは、あちらが本命だから?」 「っ!……ウィラード、何をする気だ?」  大きな手が体の線をなぞるように蠢く。彼の手が触れたところが、熱を持ったように火照る。女を抱いたときには感じなかった感覚に、慌てて止めようとすると、逆に両手まとめてシーツに縫い付けられた。 「分かっているでしょう。……レグルス殿下とも、こういうことは?」 「……ウィラード!」  いつも穏やかに微笑んでいたウィラード。私の言うことに耳を傾けてくれないことなんてなかった。それなのに今は凍える様な目をして、逃がさないとばかりに私の腹の上にまたがっている。 「さっき言っていた条件です。別れたいなら、俺に抱かれてください」  冷たい声が降ってくる。その言葉の意味を、私はしばらく理解できないでいた。  グチグチ、と粘着質な音が部屋に響く。その合間に、私の口から情けないため息のようなうめき声のようなものが漏れる。気色の悪い声だと分かっていても、さっきから止めることができない。 「ウィ、ラード……もう、やめ……!」    彼の長い指が、信じられないようなところに入っている。  肌が乾燥するからと置いてあった香油を、彼は忌々しげに見詰めてから脚の間に垂らしてきた。脚の間がべとべとになるくらい垂らされて、はしたなくも固く屹立した前と、本来なら排泄器官であるはずのそこを彼の好き勝手に弄られている。もうどれくらい弄ばれているのかも分からないけど、私の体はすっかりぐずぐずに溶けきっていた。 「痛いですか?」  こんなことをされているというのに、優しげな言葉に心臓が高鳴る。私の両腕は彼のシャツで縛られていて、私にできることなんて子供のようにイヤイヤと頭を振って彼に許してくれるよう懇願することくらいだ。だが彼は許してくれる気はないらしい。 「痛くない?じゃあ……気持ちいい?」 「イヤ、だっ、……っあん、あ、ああ、」 「本当に敏感ですね……可愛いけど他の人間にもこんな姿を見せたかと思うと、はらわたが煮えくり返りそうですよ」  こんな姿、誰にも見せたことはない。そう言いたいけれど指先が突きこまれるたびに声がかすれてしまい伝えられない。クチュクチュと、奥の方をこね回す音が部屋に響く。特に腰が跳ねてしまうほど気持ちのいい場所を集中的に責められて、眦に涙が浮かぶ。イきたいのに、決定的な刺激が与えられなくてイけない。 「イきたい、ですか?」  ウィラードが耳元で優しく囁いてくる。もうこれ以上は辛い。体の中で熱が暴れまわって爆発しそうだ。コクコクと必死で頷くと、ふわりと頭を撫でられた。 「素直で本当に可愛い……。じゃあ、イきたかったらちょっと我慢してください」  ウィラードの指が、後ろからぬるりと出ていく。そのまま彼は自身にも香油をたっぷり絡め、ほぐされてヒクつくその入口にあてがった。 「力抜いて、……挿れますね」 「……っひ、ぁああっ、や、め、…………、まっ……て」 「っは、……キツ」  ずず、という音が響きそうなほど、長大なそれがゆっくりと押し入ってくる。全身を支配されるような圧迫感に、待ってほしいと懇願するが聞き入れてもらえない。じわじわと、だが確実に深くまで入ってくるそれ。どろどろに溶かされたそこに痛みはなく、代わりに奥を掠められるたびに痺れるような快感が襲った。 「やっ……あ、あん、……あ、あ!」 「ああ、こんなに淫乱な体だったらもっと早く抱いておくべきでしたね」  私は淫乱、なのかだろうか?ぼやけた頭で思う。たしかに『抱かれる』ことは初めてなのに、すっかり快感の……いや、ウィラードの虜だ。ウィラードが小さく腰をゆするだけで、はしたない声が漏れる。彼の手が胸の飾りを掠めるだけで中をはしたなく締め付けてしまう。 「そうすれば……なんて、考えても無駄ですね」 「あ、あぁあ、……!ウィ、ラード、……!もう、」 「ああ、ここがいいんですよね?いっぱい突いてあげますね。後ろだけで、イけますか……?」 「、や、むり……!まえ、触って、……!」  中の敏感な部分を執拗に責められて、それでもイけなくて、必死で前を触ってほしくてかぶりを振る。そんな姿にウィラードは凶暴に笑うと、屹立した性器を掴むと擦り上げてきた。手も足もぶるぶると震えて、今まで経験したことがないくらいの大きな快感の波にのまれた。 「っあ、ぁ、、あ、っ……あ、ぁあああああっ!」 「あ、……ウィラー、ド……?」  喉が渇いて目が覚めた。一瞬すべてが夢だったかとも思ったが、体の奥の痛みに現実だと思い知る。 「……いないのか」  まだ夜明け前の寝室には、彼はもういなかった。まあ、分かれる条件として閨をともにしたんだから、終わったらいなくても当然だ。なのにそのことにショックを受けている自分に驚いた。体が綺麗にされているのが、ウィラードらしい気遣いでそのことも妙に心を抉った。  まだ早い時間だし、ゆっくり支度をして少し早めに執務を始めよう。いつもより集中力が落ちているだろうから、あまり重要な仕事はしないようにしなければ。  ……あと、今日だけはウィラードと王女に会わないように手配しよう。本当なら公人としてそんな甘ったれたことは許されないが、まだ普通の顔をして彼らの前に立てる気がしない。  着替えようとベッドから降りると、腰が抜けていたらしくべちゃりと地面に滑り落ちた。腕の力で起き上がろうとするが、どうにも力が入らず無様に床の上でもがく。このまま小姓が来るまで床の上なのは困る。なにしろ自分は今、服の一枚も着ておらず体中に情交の痕跡……いつの間に付けられたのか歯型やら吸われた痕やらがついているんだ。こんな姿を見られたらまずい。  そう思ってなんとか立ち上がろうと蠢いていると、ふわりと体が持ち上げられた。 「……っなにをしているんですか!?」 「ウィラード……? いたのか?」 「今、戻って来たんです。この部屋には水差しすらなかったので」  ウィラードは軽々と私をベッドに乗せると、冷たい水をグラスに注いでくれた。手渡されたグラスの冷たい水を飲む。からからに乾燥していた喉に冷水がしみ込んでいくようだった。そんな私をじっと見つめていたウィラードが、絞り出すように声をだした。 「……体、辛いですよね」  私よりも、ウィラードのほうが辛そうな顔だ。顔色も悪い。 「レグルス殿下を呼びに行きましょうか? ……おそらく俺は、叩き斬られるでしょうけど」 「……? レグルス様に……? いや、知らせなくてもいい」  体調不良で仕事になりそうにないと心配されているのだろうか。たしかにさっき立ち上がれなかったのは驚いたが、しばらく休めばよくなるだろうし、なんなら書類を隣の書斎まで持ってきてもらえばいい。そう思って首を横に振ると、ウィラードが少し熱のこもった、だけど苛立ったような顔をして唇を近づけてきた。 「……秘密にしておきたいんですか? そんなこと言ったら、また俺につけ込まれますよ。秘密を握られて、関係を強要されるとか思わないんですか?」  関係を強要?子供ではないから、それがどんな「関係」かくらいは分かる。確かに昨夜起こったことは、自分の想像の範疇を大きく超えていたけれど……だけど彼は思いちがいをしている。 「ちょっと待て。関係を強要していたのは、私だろう」  近づいてきた唇を、自分の口に触れられる寸前で掌で受け止める。 「こんなみすぼらしい男にいつまでも付き合わせて、悪いと思ったから手放してやろうと思ったのに……。お前を好きなのは私の方だし、嫌々付き合わされているのはお前のほうだろう。……だから、そんな泣きそうな顔をしないでくれないか?」 「……それだと、あなたが俺のことを好きなように聞こえるんですが」 「当たり前だろう。お前みたいな男、好きにならないわけがない」  当たり前のことだ。そう思って言ったのに、私の言葉にさっとウィラードは顔を赤く染める。そしてしばらく視線を泳がし、はっと我に返ったような表情でふたたび私に鋭い視線を投げてきた。 「そんな詭弁を。じゃあなんで、……別れようとしたんですか?」 「だからさっきも言った通り、私なんかと嫌々付き合うのは、見返りがあったとしてももう嫌だろう」 「ちょっと待ってください。なんで俺が嫌々付き合っていると思ったんですか?」 「それは……!」  あれこれと重ねられる質問に、だんだんと苛立ちが募ってくる。そこまで言わなければいけないのか。……私の口から、お前はあの王女を愛しているのだから、私なんかにもう構わないでいい。付き合わせて悪かったと言わせたいのか。それはさすがに、まだ胸が痛む。  思わずうつむくと、ふわりと柔らかく抱きしめられた。 「……すみません。俺がちゃんと言っていなかったからですよね」  大きな手が頬に滑り落ちてくる。優しく上向かされると、いつもの穏やかなブラウンの瞳と目が合った。 「セノウさん、初めて会った時からずっと好きでした。……まだ俺と、付き合ってくれますか?」  私が一目ぼれした、穏やかな微笑み。ずっと触れて欲しいと思っていた大きな掌。いつもこっそり盗み見ていた、形のいい唇。 「……そんな訳はない」 「セノウさん?」 「ずっと好きなのは、私の方だ……」  何が欲しくて、そんなことを言って私を喜ばせようとしているんだ。そういうつもりで言ったのに。ウィラードが嬉しそうに笑って「じゃあ両想いですね」なんて言うから、再び迫ってきた唇をかわすこともできず受け入れていた。  その日は一日、歩き方は変になるしレグルス殿下にはあっさりバレてからかわれるしで散々だった。だけどウィラードが「また今夜も行きますから」なんて通りすがりに囁いてくるから。私は偏頭痛のことも忘れて、ようやく手に入れた初恋の相手を思って一日を過ごした。
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