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追われておむすび
おむすび、ころりん、追いかけない。
昨日、礼介に読み聞かせたおむすびころりんを眺めながら、時成は思っていた。
"おじいさんは、おばあさんに作ってもらった、大好きなおむすびを落としてしまう。おむすびはころりんと転がっていき、穴に落ちる。穴の中を覗くと、ねずみの王国が広がっていた。おむすびをくれたお礼として、ねずみたちから打ち出の小槌をもらう。家に帰り、おばあさんに何か欲しいものはあるかいと聞くと、赤ちゃんと答えた。2人は打ち出の小槌で赤ちゃんを出して、幸せに暮らしました"
こんな話も、俺が主人公のおじいさんだったら、転がっていくおむすびをただただ見送って、何も起こらず、話が終わるだろう。
おむすびが、ひとつくらいなくなったって、どうでもいい。
俺は、何だったら、追いかけるのだろう。
目の前では、来年で8歳になる礼介がすやすやと眠っている。
もし礼介が転がっていったら、無我夢中で追いかける。間違いない。必死に、誰よりも全力で、追いかける。
つまり、俺にとってのおむすびは、礼介だ。
いつもの時間に、チャイムが鳴る。玄関を開けると、家政婦の八代さんがいた。
「おはようございます。今日はいい天気なのでお布団でも洗っちゃいましょうか」
「そうですね。いいと思います」
家政婦の八代さんとは、かれこれ3年の付き合いになる。3年前に妻が出て行ってから、俺はすぐに家政婦を雇った。ひとりじゃ何もできないことは、知っていた。
連絡すると、早速、次の日から八代さんが来てくれた。
居心地がよかった。家政婦だから無理して話す必要もないし、こちらの事情を詮索されることもない。やるべき仕事だけを説明して、俺はすぐ会社へ行っていた。
晩御飯は、一緒に食べた。
母親がいなくなってから、どこか寂しそうな目をしている礼介のために、形だけでも家族でご飯を食べてやりたかった。八代さんは「いいですよ」と快く受けてくれた。礼介とも、すぐ仲良くなっていた。
「礼介くん、まだ寝てるんですか?」
「ちょっと夏バテで」
「それは大変。今日のご飯は、そうめんにでもしましょうか」
「賛成です」
八代さんが、冷蔵庫へと向かう。
ふと、気になったので、聞いてみた。
「八代さんは、おむすびを追いますか?」
「すみません。何の話でしょうか」
慌てて、話を省きすぎてしまった。
これです、と言いながらおむすびころりんの本を手に取る。
「おむすびころりんですか。懐かしいです」
「昨日読んだ時に、俺だったらおむすびを追いかけないなって思ったんです。わざわざ必死に走らないなって。八代さんだったら、どうだろうと気になって」
八代さんは、少し固まった。きっと今、頭の中で、おむすびをころりんさせている。
「私、おむすび追いかけちゃいます」
八代さんは、ゆっくり微笑んだ。
「ただのおむすびですよ?落ちた時点で汚いし、また買えばいいだけだし、もっと美味しいものがそこらじゅうにあるし。昔の人は貧乏だから、仕方なく追いかけたっていうだけ」
「時成さん。それは違いますよ」
真面目な声に、ぴしっと背中が伸びる。
「えっと、どこが」
「おじいさんは、おむすびが大好きなんです」
「食いしん坊ということですか?」
「違います。おばあさんの作ったおむすびが大好きなんです。最初の文を見てください」
「おばあさんに作ってもらった、大好きなおむすび…書いて、ありますね」
自分のさっきの発言が、胸を突き刺す。また買えばいいだの、汚いだの、貧乏だの。俺は、この老夫婦の温かさにも気づけないような人になっていた。
「だから、おじいさんは追いかけたんだと思いますよ。追いかけたくなるようなおむすびを作ってくれる人と、それを追いかける人。2人が結婚できて良かったと思います」
八代さんはこうやって、いつも、俺が足りていない部分に気づいて、教えてくれる。
「ということは、八代さんもそういう意味で?」
「いや、私は食いしん坊なだけです」
恥ずかしそうに照れている八代さんを見て、頭の中で想像した。
朝起きて、おむすびを作ってもらう。藁に包まれた、おむすび2つ。そのおむすびが落ちて、転がっていく。ころりんと。
「でも俺、八代さんのおむすびなら、追いかけると思います」
頭の中で想像した俺は、八代さんに作ってもらったおむすびを、なぜか全力で追いかけていた。
「時成さん。あの、それって」
八代さんは、俺をまじまじと見ている。
「すみません。言い直しますね」
口を強く結んでいる八代さんに、きちんと体を向け直す。そして、息を吸った。
「今日のご飯は、そうめんからおむすびに変更でお願いします。話をしていたら、おむすびの口になってしまいました」
八代さんの目が、半開きになった。
「時成さん…そうじゃないです」
「え?もしや、すでにおむすびのつもりでしたか?」
「もういいです。おいしいおむすび作るので、待ってて下さい」
「万が一落としても大丈夫ですよ。俺がどこまでも追いかけますんで」
「分かりましたよ」
台所に立つ八代さんの背中を見ながら、俺は、清々しい気持ちになっていた。
俺には、追いかけるおむすびができた。
八代さんの、つくるおむすび。
「時成さん、明太子は大丈夫ですか?」
「いや、明太子は苦手です。明太子のおむすびなら、俺は追いかけません」
「時成さん…」
"時成おじいさんは、転がっていくそれらを必死に追いかけています。礼介くんと、明太子じゃない八代さんの作ったおむすびが、ころりん、ころりん、すっとんとん。ころりん、ころりん、すっとんとん。時成おじいさんは、追いついたり、離されたりしながら、幸せに暮らしました"
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