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不思議な同居生活
木戸さんの家は我が家から車で二時間ほど離れた場所にあった。
雨漏りの酷い吹けば飛びそうな我が家と違い、立派な一戸建て。
どうりで、急遽決まったこととはいえ生活の基盤が我が家周辺にある私に、「心配ない。来て貰うからには俺が養うし小遣いもやる。お前は赤ん坊の面倒を見てくれればいい」と言い切るわけだ。
とても似た境遇とは思えない。
木戸さんの親は子供に子供を押し付け育児放棄したけれど、金持ちだったのか。
それとも一攫千金の夢、宝くじでも当たったのだろうか。
「失礼だな。俺が稼いだ金で買ったと思わないのか」
「思いません」
だって登場が登場だ。
チンピラを拳と足で叩き出した人だ。
真っ当な職に就いてる方がおかしいだろう。
「断言すんな。ちゃんと普通に働いてる」
「へぇーー」
「信じてないな」
「そうですね」
二十代の若い男女が一つ屋根の下で暮らすことに抵抗がないわけじゃない。
響きは同棲だ。
中身は全然違うけど。
だが、好きじゃなくても一緒にいれば、ふとした瞬間に血迷うこともあるかもしれない。
私じゃなく木戸さんが。
という危惧は数週間で消えた。
何しろ朝から晩まで木戸さんは家に居ない。
私は私で産んでもないのに突然母親役を任されて、精神的にも肉体的にも疲労困憊だ。
赤子中心の生活は身なりなど最低限。
不愉快にならない程度で過ごす日々。
色っぽい雰囲気になるわけないし、そんな余裕もゆとりも時間もない。
世の中の母親は偉大だと思った。
父に執着心や依存心のあった我が母でさえ、この大変さを経験したと思えば感謝の気持ちで一杯だ。
「麻衣も食うか」
いつの間にかリビングのソファで赤ん坊と一緒に寝入っていたらしい。
スーパーの惣菜が詰まった袋を下げた木戸さんをぼんやり眺める。
「……呼び捨てですか」
「別にいいだろう。一ノ瀬って苗字は長いし一緒に住むのに他人行儀過ぎるじゃないか」
「他人ですけどね」
赤ん坊が寝てる間に出来ることはする。
疲れ過ぎて食欲はないけど食べれるうちに食べた方がいいだろう。
「今更ですけどご飯作りましょうか」
「赤ん坊の世話で手一杯なのに無理するな」
「だんだん慣れて来ました。来週あたりには離乳食を作るついでに出来そうです」
「じゃあ頼む。手作りなんて子供以来だから嬉しいよ」
おや……?
ちょっと引っかかる単語に苦笑い。
「またまたぁ、木戸さんは普通にしてればモテる容姿です。子供以来なんて大袈裟ですね」
「お前な、忘れているかも知れないが俺はコブ付きだったんだぞ。十も下の妹がいる家に女なんて連れ込めるか」
「あー、それもそうか。じゃあ他人の私が転がり込んでる今の状況は彼女さんになんて言ってるんです?」
「あのな、そもそも付き合ってる女がいたら麻衣を家に連れて来ない」
「え、彼女いないの?」
「そんなに驚くことか」
ええ、ええ、驚きますとも。
決して自惚れるわけじゃないけれど。
今の私の身なりはTシャツに短パンだ。
すっかり安心していたが発散相手がいないとなると、血迷う危惧がまた顔を覗かせる。
「俺を何だと思ってるんだ」
「チンピラを成敗した悪党です」
「悪党だと?! 正義の味方だろうが!」
「声が大きい。静かにしないとキャンディちゃんが起きてしまいます」
「キャンディ?」
「はい」
「え、まさか赤ん坊の名前がキャンディ?」
「そうらしいです。荷物の中に理沙さんから私宛に手紙がありました。キャンディをヨロ〜って」
本名かどうかは分からない。
弟と調子が似てるので愛称の可能性は高いけど、名無しよりマシだ。
赤ん坊が女の子なのであまり気にしてなかったが、木戸さんにはもっと早く伝えるべきだった。
「環境の変化に戸惑っている場合じゃなかったな。赤ん坊の世話は初めてだが今日から俺も手伝うよ」
おやおや。
またまた引っかかる単語が出て来たぞ。
木戸さんってば戸惑ってたんだ。
朝から晩まで家を留守にしてたのは、仕事もあるが私とキャンディちゃんにどう接すればいいか分からなかったらしい。
悪党のくせに気遣い屋さんとは驚きだ。
その気遣いをなぜ我が家の扉に向けなかったのか……とは、今後のため言わずにいようと思う。
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