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藤白の身請け先が決まった。呉服屋の若旦那のところだという。
「ずいぶん、急だねぇ……」
「前々から、一緒ンなりたいとは言ってくれてたんだけどね」
まさか、こんなに早く買ってくれるたあね。本人もまだ実感がわかないのだろう、動揺に瞳が揺らいでいる。
「でもさ、よかったじゃないか。ここで身体すり減らすよりも、よっぽど」
「うん……そうなんだけど」
藤白はそう言いながら目を伏せた。長いまつ毛に影が落ちて、艶やかな頬が愁いを帯びる。彼女は美人だ。しっとりとした肌も大きな瞳も魂ごと吸い寄せられるようで、同じ遊女の私からみても、酷く惹かれて仕方なかった。その姿をずっと目に焼き付けておきたいと願ってしまうほどに。
「鈴と離れることになるなんて」
そっと、その白くて薄い手を重ねられる。私はその手をするりと撫でた。私のことを鈴と呼ぶのは、彼女だけだ。そして、彼女の手のあたたかさを知っているのは、私だけ。
「……すぐに忘れるさ。こんな見世のことも、私のことも。それが、あんたにとってのしあわせでしょう」
私は、彼女から視線を逸らす。本当はこんなこと思ってない。彼女の思い出の中にずっといたい。だけど、それは、わがままだ。こんな地獄、彼女には似合わない。とっととしあわせになってもらわなきゃ。ここではすべてが早い者勝ちだ。
「嫌だ。あたしは鈴のこと忘れたくない。離れてたって、絶対に忘れるもんか」
唇に、柔らかなものが触れた。藤白の吐息が熱くて、私の涙とまざって、どっちで湿っているのかわからない。
私たちは指を絡めた。もう二度と解かれないよう、強く強く絡めた。離れたくない。忘れたくない。本当のしあわせなんて、誰にもわからない。
「待ってて。私も追いかけるから。あんたさえいなきゃ、次の美人は私なんだから。すぐに身請けが決まるはずだ」
唇と唇の交わりのあいまに、そんな強がりを言ってのけた。涙は止まることを知らずに零れ続け、私たちの頬を濡らしていく。
「待ってる。ずっと待ってる。もう一度、鈴に会えるって、ずっと祈ってるから」
す、と私から身を離した藤白は、己のかんざしをひとつ引き抜いて、私の目の前に出した。丸い琥珀の飾りのついた、綺麗なかんざしだった。
「あたしが初めて玉代で買ったかんざし。こんなものしか渡せないけど、これをあたしだと思って」
手の中にころんと収まったそれは、藤白のうなじをいつも彩っていただけあって、自信満々という風に私を見上げる。お守りにしよう。いつか再会できるその日まで、肌身離さず持っていよう。私はそれを自分の髷に刺した。藤白の魂の重みが増した気がする。魂って、重さはあるのだろうか。
「追いかけるからね」
「待ってるからね」
抱き合った身体は二人分の涙でびっしょりで、着物の色が変わっていた。明日になれば乾いている。明日になれば、彼女は出ていく。
明日になれば、私はひとりだ。
「大好きだよ」
「だいすき」
交わされた唇は、どの夜よりも湿っていた。
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