第一章:瞳に宿る影

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 ザーザーと排水溝に吸い込まれてゆく水音 だけが耳に聞こえ、徐々に心が鎮まってゆく。  どくどくと胸を叩くように騒いでいた心臓 が、手を洗うという『儀式』と共に落ち着き を取り戻していった。  もう何度、この儀式を繰り返しただろうか。  すっかり冷たくなってしまった手の平に再 び液体のそれをのせようとしたその時、突然、 誰かの大きな手が僕の肩にのせられた。  瞬間、心臓が飛び跳ねて、目の前にある鏡 を見やる。鏡越しに背後に立つ人を見れば、 彼は真っ白な口髭を苦悶の形に歪め、憂わし 気な眼差しを僕に向けていた。  「……理事長」  蛇口から手を引っ込め、罰が悪そうに俯き ながら振り返れば、目の前に紳士物の薄いハ ンカチが差し出される。僕が無言でそれを 受け取ると、彼は努めて穏やかな声で言った。  「また、症状が出てしまったか。部屋を出 る時の様子がおかしかったから、気になって 来てみたんだが。ああ……袖までぐっしょり 濡れているじゃないか」  「すみません、ご心配をお掛けして」  「いや、そんなことはいいんだ。だが、 何が引き金になったのだろうかと思ってね。 最近は落ち着いているように見えたから安心 していたんだが。もしや、最後に話してくれ た彼女が、何か?」  その言葉に、僕は思わず苦笑してしまう。  初めて会った時から彼は洞察に優れた人だ と思っていたが、こうまで見透かされてしま っては隠しようもない。僕は手を拭きながら 観念したように頷いた。  「昔、親友が言ったのと同じ言葉を彼女が 口にしたもので。会の間は、相談者の前では、 何とか平静を保っていられたんですが……。 すみません、臨床心理士である僕がこんなあ りさまで」  こんなことを言えば、返って理事長に気を 遣わせてしまう。そうわかっていても、不甲 斐ない自分を卑下せずにはいられなかった。 彼の言う通り、ここ最近は少し症状が落ち 着いていたのだ。なのに儀式を見られたこと が、無様な自分を晒してしまったようで心苦 しかった。  手を拭き終え、すっかり湿ってしまったハ ンカチを所在なく手にしていると、理事長は 小さく息を吐きながら首を振った。  「心に傷を負ったのも、その傷を癒せない のも君のせいじゃない。自分の病気を治せな い医者なんて、世の中にはごまんといるんだ。 だから、症状が出てしまったことを気に病む 必要はない、まったくね。だがそうか、彼女 のひと言が引き金に。実は私も彼女のことは 気になっていてね。罪責感に苦しむ加害者家 族は多いが、彼女の場合、自尊感情が希薄す ぎる感じがある。加害者家族である自分は幸 せになってはいけない、そう言っていただろ う?自分を否定し、生きることに価値を見出 せなくなった加害者家族が辿るのは悪い結末 ばかりだ。最悪な選択を彼女がするとは思い たくないが、彼女に関わった支援者として、 そうならないよう導く必要がある。折を見て、 こちらから彼女に連絡を入れるとしよう。  君が辛いようなら、彼女のことは菜乃子に 任せ……」  「いえ、僕に担当させてください。僕から 彼女に連絡を」
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