第一章:瞳に宿る影

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第一章:瞳に宿る影

――十年前。  潮風を受けながらプロムナードを抜け、 茜色に染まる夕凪橋を渡ろうとする僕たち を、呼び止める声があった。  「心春(こはる)、またデートか!?」  僕たちは手を繋いだままで振り返る。  目を細めつつ横断歩道の向こうを見やれば、 夕陽を背に長身の男性が手を振っている。  心春のお兄さんだ。  僕は逆光に切り取られた二つ年嵩の先輩に ぺこりと頭を下げると、隣に立つ恋人と視線 を交わした。兄に負けじと、心春も声を張る。  握っていた手に、少しだけ力が込められる。  「そうだよ、海山公園(みやまこうえん)の展望台に行くとこ ろ!悪い!?」  「別に悪かないけどさ。でもあんまり勉強 の邪魔すんなよな!西村は我が校の『期待の 星』なんだから!」  僕たちと同じ進学校を卒業し、地元の大学 で青春を謳歌している先輩がまるで担任のよ うな顔をして胸を張る。期待の星などと過大 評価されてしまった僕は、「そんなことない」 と叫びたいのを堪えながら、ただ小さく首を 振るに留めた。  そんな僕の胸奥を知るはずもない心春が、 一笑する。そして、さらに大声で言った。  「だいじょーぶ!永輝(えいき)の成績は塾でも学校 でもズバ抜けてるんだから。模試の評価だっ ていっつもA判定だし、永輝だったら試験中 に居眠りしたって絶対受かっちゃうよ!」  「この世に絶対なんてないって、心春」  いい加減、居た堪れなくなって小声で窘め ると、途端に心春が口を尖らせる。  「だって本当のことでしょ?それに、週に 一度くらいのデートなら全然勉強に差し支え ないって、余裕だって永輝も言ってたじゃん」  「それはまあ、そうだけど」  甘えるように腕を絡ませてくる心春に、僕 は口籠る。僕から好きになって告白したこと もあり、恋と勉強を天秤に掛けるといつも恋 の方が勝ってしまう。  イチャつく僕らに呆れたのだろうか?  遠目に見てもわかるほどあからさまに肩を 竦めると、先輩は「はいはい」と言った。  「わかったよ!お前の彼氏は天才だからな。 俺の心配なんか余計なお世話だったな!」  言って身を翻そうとする兄を今度は心春が 「ねぇ」と呼び止める。道路を挟んだ向こう 側に立つ兄は、言葉とは裏腹にやさしい眼差 しを妹に向けている。  「お兄ちゃんはどこ行くの?家に帰るんじ ゃないよね!?」  「ああ。週末また山登るからさ、ちょっと 新しいゲイターを買いに行ってくる」  「えっ、また山登るの!?遭難しても知ら ないよ?うち貧乏だから捜索費用とか出せな いからね!」  「遭難なんかしないって。心配すんな!」  あはは、と笑いながら手を振ると今度こそ 背を向けて去ってゆく。僕は夕陽に溶けよう とする背中を見やりながら、ぽつりと呟いた。
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