第三章:見えない送り主

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第三章:見えない送り主

 玄関の扉を開けると薄暗い廊下の向こうに 一筋の灯りが漏れていた。僕は皮靴を脱ぐと、 どんよりと絡みつくような空気の中を忍び足 で進んで行った。そしてピタリと足を止める。  廊下に切り込みを入れるように伸びる橙の 灯りの手前で立ち止まると、リビングから母 の尖り声が聞こえた。  「まったく恥ずかしいったらないわ。絶対 受かるといわれながら二度も落ちるなんて! 模試の成績だけ良くても何にもなりゃしない。 あの子はメンタルが弱すぎるのよ。本番に弱 すぎるの!このままじゃ永遠にT大なんて 受からないわ!!」 ――ああ、まただ。  その言葉を聞いた瞬間、僕は石のように体 が硬くなり動けなくなってしまう。ここから 逃げ出したい。そう思うのに、心を打ち砕く 数々の言葉が、耳すら塞げない僕に容赦なく 襲い掛かった。  「あの子はもうおしまいよ。だからあなた が代わりにT大を受けるの。現役で受かって 西村家の名誉を挽回してちょうだい!お母さ ん、教育長やってるから嫌でも子どもの進路 を聞かれちゃうの。だからこれ以上顔に泥を 塗られたら困るのよ。え?他に行きたい大学 がある?馬鹿言ってんじゃないの!!T大に 受かれば人生安泰よ。お父さんだってそうで しょう?だからね、お願い。あの子の代わり に受かってちょうだい。あなたなら出来るわ。 いいわね、約束よ!!」  その言葉と共に、バタン、とリビングの戸 が閉まる。瞬間、僕は漆黒の闇に投げ出され、 落ちてゆく感覚に、はっ、と目を開けた。  「……夢、か」  布団を払いのけて飛び起きると、ひんやり とした空気が僕を包んだ。僕は額に滲む汗を 拭い、ほぅ、と息を吐く。隣の布団に眠る妻、 すみれは静かな寝息を立てていて起こしては いないようだった。  無意識のうちにパジャマの胸元を掴み、 それで仰ぐようにパタパタと動かす。 ――あの子はもうおしまいよ。  不意に呪いのような母の言葉が耳に甦り、 僕はひとり自嘲の笑みを浮かべた。  『もうおしまい』というその言葉通り、僕 の人生は不合格通知から凋落の一途を辿った。  進学実績を上げたいだけの担任は、出願に 必要な調査書を取りに行くたびに僕に憐みの 目を向け、「朗報を待ってるよ」と心にもな いことを口にしてくれた。  学歴至上主義の母の期待を完膚なきまでに 裏切った僕は、それでも、志望校を変更する ことは出来なかった。浪人までしたのだから 受からなければ、二浪までしたのだから絶対 受からなければ、と不合格の知らせを受け取 る度に心がきつく縛られてゆく。 
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