第三章:見えない送り主

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 経年劣化を感じさせる外階段を上り、表札 のない部屋のインターホンを押すと、すぐに 返事がありスウェット姿の女性が顔を出した。  無造作に髪を一本に結んでいるその女性は、 藤治さんの顔を見た瞬間に、  「もしかして、佐奈ちゃん?」  と目を見開き、すんなりと僕たちを家に上 げてくれたのだった。  「だけど本当に来てくれると思わなかった。 彼には何も伝えないように、って言われてい たんだけど、せめて結婚したことと居場所だ けは知らせたいと思ってこっそり送ったのよ。 驚いたでしょう?突然、お兄さんの奥さんを 名乗るわたしから手紙が来たりして」  朗らかな笑みを浮かべ顔を覗き込む彼女に、 藤治さんは少し困った顔をしながら「いえ」 と首を振る。そうして、ちら、と僕と視線を 交わすと、躊躇いがちに話を切り出した。  「あの、兄とはどういった経緯で知り合っ たんですか?」  その問いに、ああ、と彼女は肩を竦める。  緊張した面持ちで身を乗り出す藤治さんに、 彼女はゆったりとしゃべり始めた。  「刑務所にいるお兄さんとどうやって知り 合ったのか、不思議よね?実はわたし、以前 は新聞社の社会部にいて、取材のために時々 お兄さんのところに足を運んでいたの。いま は辞めてしまったけどね」  「じゃあ元新聞記者、という訳ですね」  思わず僕が口を挟むと、白い湯気の立ち上 るマグカップを両手で包み、彼女は頷いてく れる。質問した本人は新聞記者という言葉に 得心し、それでも不思議そうに彼女を見つめ ていた。  「どうして殺人を犯したお兄さんとわたし が結婚したのか?信じられないといった顔ね」  あまりに図星だったのだろう。その言葉に 藤治さんは目を瞬き、けれど申し訳なさそう にこくりと頷いた。  そうよね、と呟きながら彼女が息を吐く。  そして凛とした眼差しを僕たちに向けると、 落ち着いた声音で言った。  「お兄さんは鬼でも悪魔でもない。普通の 人間なの。だけど、生きている間に色んなこ とがあって、その(しがらみ)に負けて犯罪を起こして しまった。わたしたち新聞記者はね、当事者 から話を聞き出すことで事件の背景を知って、 それを『真実』として世間に伝えるのが仕事。 だけど取材を積み重ねていくうちに心の奥を 知り過ぎて、もっとも深い部分でその人と繋 がることもある。犯罪者である前にひとりの 人間としてね。だからわたしは彼のすべてを 受け止めた上で結婚したの。永輝さんを愛し てるわ。それだけは胸を張って言える」  嘘偽りのない真っ直ぐな言葉に、僕たちは 束の間、口を噤んでしまう。会って間もない 僕たちに『愛している』と宣言できるほどに、 彼女はひとりの人間として早川永輝を尊重し、 彼のすべてを受け入れているのだろう。
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