第三章:見えない送り主

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 苗字を変え、生育家族から戸籍を抜くため だけに獄中結婚をする受刑者が多いことを思 えば、真剣に互いを想い合える相手に出会え た彼女の兄は幸運だったといえる。  彼女のひたむきな想いを前に沈黙していた 藤治さんは、それでも確かめるように訊いた。  「じゃあ、恐くないんですね。兄のことが」  「もちろん、恐くはないわ。佐奈ちゃんだ って知っているでしょう?お兄さんがやさし い人だってこと。それに、どんなにお兄さん が苦しんでいたかもあなたは知っているはず」  決して責めるような口調ではなかった。  けれどそう言われた途端、藤治さんは唇を 噛んで俯いてしまう。その反応をまるで予期 していたように彼女の顔を覗くと、すみれさ んは至極やさしい声で言った。  「ごめんなさい。佐奈ちゃんを責めている 訳じゃないの。でも、わたしは全部知ってる。 お兄さんが苦しんだことも、あなたが自分を 責めているに違いないということも。お母様 に価値観を押し付けられてしまって、それを 跳ねのけることが出来なかったのよね?あな たたち二人はやさしいけど、まだ子どもで、 弱かった」  何のことを言っているのか、僕にはさっぱ りわからなかった。けれど『わたしが兄を追 い詰めてしまった』と言っていたことに関係 しているのだろう。  「……兄は」  俯いたままの藤治さんを案じて声を掛けよ うとした時だった。彼女は顔を上げ、苦し気 に言った。  「恨んでますよね、わたしのこと。だから、 自分がどこにいるかも告げないまま、ずっと」  「そうじゃない!」  突然、語気を強めると、すみれさんは手を 伸ばし藤治さんの手を握った。  「お兄さんが佐奈ちゃんに居場所を伝えな かったのは、あなたに合わせる顔がなかった からなの。自分のせいで佐奈ちゃんが大学を 辞めることになって、加害者家族という負担 まで背負わせることになってしまった。その ことを彼はとても悔やんでいて、だから自分 は一生家族と会わずに生きようと決めたのよ。 でも、それじゃ悲しいじゃない?生きている のに、たった二人きりの兄妹なのに会わずに いるなんて」  初めて聞かされた兄の本心は、凍っていた 彼女の心を解かしたようだった。彼女は震え てしまいそうになる口を引き結び、涙が滲ん だ眦を指先で拭っている。  会話の成り行きをじっと見守っていた僕は、 いまが切り出すタイミングと思い口火を切っ た。
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