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「お兄さんは彼女のことを思って居場所を
告げなかったんですね。そのことがわかった
だけでもここに来た甲斐があります。ですが
実はもうひとつ、お話を伺いたいことがある
んです。少し前にお兄さんのお名前で彼女の
元に手紙が届いたんですが……」
「永輝が手紙を?」
「はい」
あからさまに怪訝な顔をして見せた彼女に
僕が頷くと、藤治さんが鞄から手紙を取り出
す。そしてそれを彼女に差し出すと、彼女は
封筒から便箋を取り出し読み上げた。
「犯罪には恐怖がつきまとう。それが刑罰
であるって。なにこれ。何だか気味が悪いわ。
どういう意味かしら?」
便箋に認められた一文を読み、眉を顰める。
その表情は嘘をついている人間のものには
見えず、僕は本題に入った。
「僕もその文章の意味を知りたくて調べて
みたんです。そうしたらその言葉は十八世紀
の哲学者、ヴォルテールの格言でした。その
手紙の送り主が、どういった意図でヴォル
テールの格言を引用したのかわかりません。
が、差出人の名が『早川永輝』となっていて
も筆跡は彼のものではない。そうですよね?」
「ええ、彼の字じゃない。それだけは確か。
それに、永輝から佐奈ちゃんに手紙を送るな
んてあり得ない。今回だって、わたしが彼に
内緒で手紙を送ったんだから」
その言葉に息をつき、僕は藤治さんと視線
を交える。もはや、その字が彼女のものでも
ないことを確認する必要はないだろう。
となると、訊きたいことは他にある。
そのことを僕が切り出そうとすると、藤治
さんが先に口を開いた。
「送り主の名が『西村永輝』なら、不思議
に思うことは何もなかったんです。西村永輝
の名を知る人は世の中に数えきれないほどい
るから。でも、兄が結婚して苗字が変わった
ことはごく限られた人しか知らないはずなん
です。だからもし、お二人が結婚を知らせた
人で誰か心当たりがあったら……」
「それってわたしたちの身近な人間がこの
手紙を送ったんじゃないか、ってこと?」
「いえっ、そういうわけじゃなくて。ただ、
何か手掛かりが掴めればと思っただけなんで
すけど」
最後の方は消え入りそうな声で言って藤治
さんが身を竦める。するとすぐに、彼女は、
ふふっ、と声を漏らした。
「いいのよ。別に気を悪くした訳じゃない
からそんな顔しないで。でもね、わたしたち
が結婚したことは保証人を頼んだ職場の上司
以外、誰も知らないの。わたしの両親にもま
だ言ってないし、友人にも誰にも言ってない。
永輝に至っては、わたしが内緒で知らせたく
らいだから佐奈ちゃんとお爺さん以外にその
ことを知る人はいないはずよね?」
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