第三章:見えない送り主

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 「実はわたし、夢があったんです。基礎研 究医なって、新規がん治療の開発に携わりた いっていう夢が。祖母を早くにがんで亡くし ていたからその道を目指していたんですけど。 でもJ大学で分子病理態学を学びたいと言っ たわたしの声は、母にはまったく届きません でした。結局、わたしは母に言われるがまま 志望校を変更してしまったんです。兄はその ことを知っても、わたしを責めませんでした。 ヒステリックに喚く母のことは誰にも止めら れない。兄もそうわかっていたんだと思いま す。試験の前日、『佐奈には必要ないだろう けど』ってお守りまで渡してくれて。だから わたし、『一緒に受かろうね』って兄に言っ たんです。なのに……」  そこで途切った彼女の声は、震えていた。  涙を堪えているのだとわかった僕は、それ でも、黙って彼女の話を聞き続けた。  「兄が受かりたくても受かれなかった大学 に、わたしだけが受かってしまった。そんな 風に、兄を追い詰めたくなんかなかったのに、 結局、わたしが誰よりも兄を追い込んでしま ったんです。兄は三浪が決まって、その年の 秋に心春さんを……。二人の間に何があった のか、わたしにはわかりません。だけど、兄 が罪を犯してしまった責任は、わたしにもあ るんです。わたしが母の言いなりにならなけ れば、ちゃんと自分で自分の人生を決めてい れば、兄が心春さんの命を奪うことはなかっ たかも知れない。だからきっと、わたしは兄 に恨まれてる。ずっと、そう思って……」  涙に揺れる声が、きりりと胸を締め付ける。  僕は泣き顔を髪で隠すようにして項垂れて しまった彼女の肩を、そっと抱き寄せた。  一瞬、戸惑いに肩を震わせた彼女に、僕は 「こうすれば誰にも見えないから」と囁く。  その言葉に彼女は肩の力を抜くと、僕の胸 に頬を預けた。腕の中で細い肩が震えている。  学歴で人に優劣をつける歪んだ価値観の犠 牲になったのは、他ならぬ彼女なのに、夢を 奪われ、加害者家族という十字架を背負わさ れてもなお、彼女は自分を責め続けている。  僕は悔しさに口を引き結び、遠くを睨んだ。  起きてしまった犯罪の影には、こうした複 雑な問題がいくつも絡んでいて、だから僕は 加害者家族を支援するこの仕事を選んだのだ。  僕は白くなり始めた空を睨んだまま、彼女 の肩を擦った。  「藤治さんは悪くない。お兄さんだってわ かってるから、お守りをくれたんだと思うよ」  そう言うと、腕の中の彼女が洟をすする。  その仕草がなぜか可愛く思えて、僕はよう やく頬を緩めることが出来た。  「藤治さん。この手紙の件、一旦、僕に預 けてくれないかな?」  肩を擦りながら言うと、彼女がのそりと顔 を上げる。僕は真っ赤に染まった目を覗き込 むと、小さく頷き言葉を続けた。
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