北辰の星影

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 夕刻というにはまだ早い時間、秋生修之輔は羽代城三の丸にある住み込み長屋の自室に戻ってきた。芒種が過ぎて夏至に向かうこの頃は日が長い。厩の仕事を手伝って掛けたままだった襷を解きながら表戸を開けると、夏の海を思わせる鮮やかな青色が修之輔の目に入ってきた。 「戻ってくるのが早くないですか」  窓の格子から漏れ込む光を目に映して、畳の上に寝転んでいる弘紀が修之輔を見上げてきた。弘紀が身に付けている上質な青い絹の綾織りは、この城の主、羽代国主朝永家の当主である弘紀の身分をそのまま表している。  一方で弘紀の脇には見るからに質素な木綿の黒羽織が置かれていた。弘紀はこれを羽織って執務の場である二の丸御殿から抜け出してきたのだろう。この国の当主とは言え、むしろ当主だからこそ、弘紀は城の外にすら思うように出ることができない。なのでしばしば息抜きのため、簡単な変装で御殿を抜け出しては修之輔の部屋にやってくる。 「弘紀、奥の滝沢様には断ってきたのか」 「最近はわざわざ断らなくても、私が御殿の中にいなければここにいるものと承知しているようです」   起き上がって姿勢よく座り直しながら弘紀がそう云う。畳の上の海は弘紀の肩から袖に流れた。修之輔をまっすぐに見てくる弘紀の黒曜の瞳の上、くっきりと弧を描く眉は弘紀の感情をよく現わすが、端正に整うその顔に気後れの感情など微塵も浮かんでいない。むしろ修之輔の方が多少の気まずさを覚えたが、 「秋生の今日の役目はこれで終わりなのですか」 弘紀は別のことを尋ねてくる。 「いや、今日は夜に歩兵隊との合同の訓練がある」 「夜ですか」  羽代藩の歩兵隊は山崎という者が束ねている。山崎は修之輔が数年前に羽代藩にやってきてからの友人だ。近頃の軍備増強に伴って下士だけでなく郷士や農民も羽代の藩兵に雇われたため、武器の取り扱いや戦の仕方を訓練する必要があった。今夜行うのは夜間行軍の初めての訓練だった。  修之輔が頭を務める馬廻り組は主に騎兵で構成されている。馬は夜目が利く。山崎は修之輔に歩兵隊との合同の訓練を申し入れ、番方を取り仕切る家老の西川氏による許しを得た。   「今夜が最初の夜間訓練だ。上手く動けたなら改めて正式な訓練の依願が弘紀の下に届くはずだ」  実績を作ってから当主の裁可を仰ぐのは常に根回しを怠らない西川氏らしい采配だ。そんな西川氏の気配り関係なく、訓練の内容を修之輔から直接聞いた弘紀は、夜間行軍の訓練ですか、修之輔の言葉を繰り返した。 「江戸で聞いた王子の狐のような光景になりそうですね。灯りがぽつぽつと野原に灯るのでしょう。私も見てみたいな」  弘紀が云うのは江戸の近郊、王子稲荷で見られるという狐の行列の伝承だ。辺りから集まる何十匹、何百匹もの狐が各自の尻尾の先に狐火を灯して歩くのだという。幻想的な光景に好奇心が湧くのは理解できるが。 「灯りを持つのは数名のみだ。敵に夜襲を気づかれないための訓練だから月の光のみが頼りになる。怯懦に取りつかれたものがいれば、それこそ仲間を狐とみて同士討ちも起きかねない。危ないから弘紀は来ないように」  強めに言い聞かせておかないと弘紀は本当に見に来てしまう。しばらく無言で見つめ合って、修之輔の真面目な様子に弘紀はこれはだめだと悟ったらしい。 「……観月楼からなら見えるでしょうか」 「見えないだろう。訓練は城の北側で行う」  防衛のために城の背後に当たる北面の視界は遮られている。 「北の星の、北辰の下なら見えないですね」  前のめりに畳に手をついていた弘紀は、そこでようやく諦めた。 「いずれ正式な訓練課程になれば、西川様も弘紀に上覧を提案するだろう。それまでにしっかり鍛えておく」  そこで弘紀は当主としての責任に思い至ったようだ。 「馬の数は足りていますか」 「正直なところ、足りていない。城下から何頭か徴収しているが騎馬としての調教を受けていないので難しい」 「城の馬を出しましょう。松風も使ってください」  弘紀の申し出は修之輔にとって有難いことだった。弘紀の愛馬である松風は気性が荒いことで知られているが、修之輔の指示にはかろうじて従う。修之輔が松風を使えば、修之輔がいつも使っている穏やかな性質の残雪を他の者に貸すことができる。修之輔は両手をついて頭を下げ、弘紀に謝意を示した。 ——もしかしたら弘紀はそろそろ御殿に戻らなくてはならないのでは。  修之輔がその懸念とともに頭を上げると、こちらをじっと真顔で見ている弘紀と目が合った。 「今夜これから貴方は訓練がある、ということは……」 「今夜は、行けない」  修之輔の返事を聞いた弘紀は途端に、先ほどと同じ様に畳の上に寝転がった。目に見えて分かりやすく不貞腐れている。その様子にはついさきほどまでの年若く賢明な当主の風格は面影もない。修之輔は弘紀の側に寄り、首を少し傾げて弘紀の顔を覗き込んだ。 「だから、ではなかったのか」 「なんのことですか」  弘紀は素直な疑問の表情を浮かべる。修之輔はその頬に指を伸ばして軽く触れた。 「弘紀の方に今夜用事ができたから、その前に会いに来たのかと思っていた」  修之輔の指は弘紀の滑らかな頬をなぞり、顎に掛かってその先を捉え弘紀に返事を促す。弘紀が顔を微かに振れるだけで外れる程度の力加減。けれど。  弘紀は躊躇う素振りを微塵も見せず、逆に修之輔の手首を軽く掴んだ。  捉えたのは、捉えられたのは、いったいどちらか。  互いの息の湿り気を感じるほどに間近に見つめ合う。弘紀の黒曜の瞳の中には欲情の光が滲み出していた。弘紀の中に火を点けたのが自分であることに修之輔は隠しようなく淫靡な満足を覚えた。  人を惑わす狐の燐光は互いの瞳の中にある。  それとも人を導く北辰の星の輝きか。 「……誰か、来ないでしょうか」  弘紀の視線が昼の明るい光を溢す格子窓に向けられる。自分から逸れる弘紀の視線がもどかしく、修之輔は弘紀の頬に軽く口づけて、その注意を自分へと引き戻した。 「ならば誰か来たら直ぐに対応できるように、こうしよう」  修之輔は仰向けに横たわっていた弘紀の背を抱えて起こした。修之輔のやや強引な腕の力に、弘紀は甘えるように、誘うように、その足を修之輔の足に絡めてくる。縺れて絡まる互いの足。修之輔が弘紀の腰を両手でつかんで小柄な体を持ち上げると、弘紀は修之輔の上に跨る体勢で互いに向かい合った。  自分の肩にしがみ付いた弘紀の手はそのまま、重ね合わせる唇、絡まる舌の主導権は弘紀に譲り、修之輔の指は弘紀の袴帯を解いていく。 「ふ、んう……、ん」  深く重ねた唇から互いの吐息と唾液が混ざり合って濡れた音が次第に大きくなってくる。口腔の粘膜で直に触れあう弘紀の息には、熱と湿り気が増してきた。 「あ……ん、ひっ、あ……、あんっ」 びくりと弘紀が体を震わせる。 「あ、や……、ん、んう……あ」  慣れた手順のその内に、修之輔が弘紀の背筋を着物の上からなぞり、下帯を緩めながら意図的に素肌に触れる度、弘紀は身体を敏感に震わせた。 「……あまり、時間がないのか」  いつもより先を急ぐ弘紀の様子に気づいて修之輔がそう尋ねると、弘紀は軽く頷いた。 「だから……、もう、このままで」  弘紀の袴は膝まで落ちて、青い小袖の裾は膝の上、腿まで割れて滑らかな素肌が露になっていた。すでに乱れている弘紀の息で察してはいたが、覗く白い下帯は下から持ち上げられている。 「このまま……」  弘紀の手がもどかしげに修之輔の股間に伸びて、まだ立ち上がりかけたばかりの修之輔の陰茎を探る。弘紀の体重を肩で支えながら修之輔が自分の下帯を緩めると、弘紀は待ちかねたように直に修之輔の陰茎を握りしめた。
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