じつによくある審判にて

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

じつによくある審判にて

 全くもって、なんとも不運な出来事か!  私は死んでしまった。あぁそれも、水害によって惨めったらしく悶え苦しみながら。大雨のせいで川が氾濫し、村を襲ったその大洪水は、怪物のように建物や人々を食らい尽くしていった。  私も例外ではなかった。私は、そう、そうだ、泳げなかったのだ!川に潜り魚を取ることが出来ない。そもそも水が怖い。水の透明さと重みが恐ろしい。だからバカにされてきた!なのに!  なのに、私を虐げ、罵り、暴虐の限りを尽くしてきた連中は、今でも生きているなんて!  どうして彼らが生きて、私が死ななくてはならない?はらわたが煮えくり返りそうだ。許せない。殺してやりたい。今まさに死んでしまった、私と変われ。  けれども……あぁ、大丈夫。大丈夫。  今となってはそんなこと、どうでもいい。  彼らはもはや不毛の土地となったあの場所から離れ、積み上げてきた文明が破壊された後の、愚かにも石器時代の人間の如く生きていく。お似合いの末路である。  一方私は死に、そして、伝承にある永久に暮らせる理想の霊界の土地へ行くのだ。善行を積み、悪行に耐え忍んできた。この私なら、絶対にあの場所へ行けるはず。絶対。絶対。だって、そのために今まで生きてきたのだから。生への希望を捨て、その先の死に希望を見出していた。私なら。  そういえば、多少その旅路に苦難があると聞いたが。構わない。何にも脅かされぬ楽園へ行けるのなら、それくらい安いもの。そうでしょう?  今、私の目の前には天秤を持った女性が立っている。  辺りは黄金色の高い柱がそびえ立ち、解読不能な記号のような物が、小綺麗な床からはるか高い天井まで連なっている。あの本で見た光景。その女性は女神のような美貌の持ち主で、ジッと私を見下ろしている。  彼女の持つ金色の天秤。その片方の皿には、真っ白な羽が乗っていた。  そして、その反対の皿に。今まさにその羽と比べられるものが置かれようとしている。  私の、心臓。  女性の片手に収まっているのは、真っ赤な私の心臓である。私が死んでいるからか、血も出ていないし動いていない。ただ、真っ赤。どうして?なんだか可笑しくて、吹き出してしまいそうだ。  あの心臓と羽とが釣り合いが取れた時。私は楽園へ行く事ができる。人の悪事は心臓に刻まれ、その分重たくなる。子供の時から言われてきた教えだ。  今生きながらえているであろうあの連中は死後、確実に、楽園へ行く事はできない。彼らの心臓はきっと重くなりすぎて、羽との釣り合いは愚か天秤など壊れてしまうのではないか?がしゃんっ、と!だとすれば、なんて面白い!楽園からその様子を見物してやりたい!  あぁ、私は。生まれてこのかた、悪事などした覚えは一切ない。殴られても蹴られても仕返しなんてしていない!ただ自身の体を抱いて耐えていた。痛みに身を震わせ、再び来たる地獄のような明日に絶叫しながら。  それに、私がしたのは耐えることだけではない。それだけでは楽園への道は、きっと遠い。私の心臓は軽くならない。そう、私がしてきたのは、紛れもない善行だ。人のためになる事。良い行い。褒められる事。ほら。何処かの誰かの言葉を借りるならば、徳を積むだとかって言うでしょう?それだ。……それなのに、やはり周囲の連中は感謝さえ述べなかったが!  あぁ……失礼。だからほら、早く審判を。さっさと私を楽園へ導いて。……何をそんなに悠長に構えている?何故私に、そんな目を向けている?早く心臓を。心臓を乗せろ。早く。  女性が掲げる天秤が震える。  かちゃん、と。  天秤が揺れ動く音がした。  羽と心臓。ゆらゆらと揺れるそれは、じれったくて。叫び出したくなった。拳に力を込め、唇を噛む。  いつまで待たせる?私の心臓の軽みはもしや、羽根に(まさ)ったのでは?なるほど。だとすれば合点がゆく。やはり、彼らとは違う!あの真実の羽すらも凌駕する、私の良心が。善行が…………。  …………______は?  呆けたような声が漏れる。  目を疑った。  見間違いだろうか。  更に乗った私の心臓は、大きく傾いていた。  ……下へ。  反対に羽はふわりと、天秤の上で留まっている。  女性の視線が、私に注がれた。  意味がわからない。何が起きている?まさかあの天秤は、不良品であったか?そうでなければ羽?いや、違う。違う。この女性、この女!彼女が私を陥れようと、天秤のさじ加減を変えたか?ちょっと傾けて、私の心臓を重たくさせたのか?  そうだ、そうに決まっている!だって、私はあんなにも良い行いをしたのに!悪行に苦しみながらもようやく人生を終えて、ここまでやってきたのに!楽園へ行けないなんて、おかしい。おかしい。  女性は憐れむような目で私を見下ろす。そして天秤に乗った心臓を、ろくに見もしないで掴み取る。襲いかかって殺してやろうとしたが、既に身体は動かない。  どうして。  どうして、私が。  あんなにも良くしてやったのに!  あんなにも苦しんだというのに!  どうして、わかってくれない?  結局、人も神も何もかも、その程度なのか?  片手に収まったそれを、女性は空中へ放り投げる。  横から、形容し難い気色の悪い四足歩行の獣が飛び出した。  そして大口を開けて、私の心臓を、  ぐしゃり、と食べてしまった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!