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脱力した高嶺奏をベッドへ降ろした瞬間、数ヶ月前の忌まわしい出来事が蘇った。
園生猛士から受けた性暴力━━厳密には最後まで許さなかったのだから、かすり傷と思って受け流すこともできるかもしれない。けれど、顔面と下腹部を這い回る彼の唇や指のおぞましい感触は、どれだけ時が経とうが払拭できずにいる。
━━園生猛士は今、どこで何をしているのだろう。
路上で二度目の襲撃に遭って以来、何の音沙汰もない。無言のまま飛んで消えることなど日常茶飯事な水商売界隈では、彼の行方に言及する者も周囲にはいなかった。
━━このままフェイドアウトしてくれれば、それ以上は何も望まない。
『glissando』で働くことを勧めてくれたのは、彼。収入が少ないときは、誘われるまま食事にも連れていってもらった。
利用できるときは散々世話になっておきながら、最低な切り捨て方をしたという自覚はある。いつか自分の身には、とてつもない天罰がくだるかもしれない━━。
「カノン」
ごちゃごちゃと思いを巡らせるサチを呼び戻すように、ベッドに横たわる高嶺奏が低く絞り出すような声を発する。
「なあに、ここにいるよ。熱い? 寒い?」
恐る恐る顔を覗きこむと、紅を差したように色付いた唇から静かな寝息が漏れ始めた。
「なんだ、寝言……」
起きている時よりもハッキリとした語感だった。
どんな夢を見ているのだろう。
呼んだのは私の源氏名?
それとも、曲のタイトル?
心の問いに応えるように、高嶺奏の左手は空を舞い。白く華奢な指が、僅かに揺れた。
━━弾いているの? 『カノン』を。
まだ熱を帯びた手をそっと握り、ブランケットの中へと収めさせる。つるりとした額に冷却シートを乗せて撫でるうちに、添い寝したい衝動へと駆られたけれど。
「良くないね、それは」
戒めるように独り言をつぶやき、ベッドの下でクッションを抱えたまま……いつの間にか一緒に眠っていた。
私たちは手を取り合い、草原を駆け抜ける。
向かった先には、白いグランドピアノ。
パッヘルベルの『カノン』を奏でる高嶺奏と、彼を取り巻く観衆たちに混じって拍手を送る私・碓氷幸。
夢の中で、二人は自由だった。
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