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小学生の頃。
「ピアノを習いたい」と母に打ち明けた。回答は想像通り、「ノー」だった。
『ピアノなんて、お嬢様の道楽だから』
確かに、母の言う通りだと思った。両親の離婚によって【福多幸】から【碓氷幸】となって以来、名前に偽りなく家はいつも貧しかった。
仲良くしてくれていた同級生の一人に、三代続く開業医家庭のお嬢様がいた。広い邸宅には、グランドピアノが置かれた応接室があった。
「ねぇ、弾いてみていい?」
「うん、いいよ」
気立ての良い彼女は快く招き入れてくれ、何百万という価値も分からず鍵盤にも触れることを咎めもしなかった。
週に一度、邸宅にピアノ講師を招き入れてレッスンを行う日があった。印象に残っているのは、若い女性講師が弾いてくれたパッヘルベルの『カノン』。その旋律に魅了されるや女性講師の指使いを頭に叩きこみ、幼いサチは頭の中で何度も反芻した。
「ねぇ、弾いてみていい?」
「うん、いいよ」
いつも通り、お嬢様の同級生はサチの申し出に頷いた。そして━━初めてトライしたにも拘わらず、『カノン』のクライマックス16小節をなぜか弾きこなしてしまった。
『すごいわね、才能あるんじゃない? お母さんに頼んで、ピアノを習わせてもらったら?』
若い女性講師のおだてを真に受けて、パート先から帰宅した母に頼みこんだ結果。『お金持ちの━━』というセリフで、一蹴されてしまったのだけれど。
母に一蹴されたことに関しては、さしてめげることはなかった。
━━想定内だ。同級生の家でグランドピアノを弾かせてもらえるなら、それでいい。
後日。再びお屋敷の門をくぐり、不躾にお嬢様の名前を呼んだ。サチを見かけた彼女の母親だけが玄関へ現れ、迷惑そうな表情で一言こう告げた。
「帰ってくれるかな?」
娘の具合が悪い云々と理由を一通り並べてはいたが、要は金輪際遊びに来ないでほしいのだと。口調は優しかったけれど、はっきりと拒絶されてしまったのだ。
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