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「決めてあるの? 源氏名は」
挨拶を交わして、わずか五秒後。面接官であるマネージャー・合澤が二言目に発したのは、『入店後の待遇』でも『ホステスの心得』でもなく、呼び名の確認だった。
「いえ、まだ。あの、採用なんですか?」
自らの意思で赴きながら、土壇場で怖気づく。我ながら悪い癖だと、サチは頭を抱えたくなる。
何もかも知り尽くした老練者と呼ぶに相応しい合澤に見つめられ、息を吐くことも忘れそうになる。喉を通りかけた唾を飲み込むか否か迷っていたところ、予想以上に穏やかな声色で言い渡された。
「筆跡を見れば、人となりは分かる。君は几帳面で生真面目。心配性のきらいはあるけど、教えがいがある。きっと、ママも気に入るでしょ」
握手を求められ、思わずビロード生地のソファから立ち上がった。
「よろしくお願いします」
両手で握り返し、深々としたお辞儀を繰り出した三秒後。
━━ターン、ターン、ターン……。
待ち受けていたかのように、控えめなメロディが後方から耳に届く。
「カノン……」
考えるより先に出たサチの一言を、合澤は冒頭に投げかけた質問の回答だと捉えたらしい。
「『カノン』ちゃん、いいんじゃない。誰とも被ってないしね。はい、採用」
尚も鳴り響くピアノの音色へ向かい、合澤は穏やかながらも通る声でキッパリと指示を出した。
「ソウ君、練習は五分後にしてくれる?」
ソファ越しに振り向くと。
フロアの片隅には、遠慮がちに置かれた黒いグランドピアノと━━夢の中で見た青年ピアニストの姿があった。
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