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「ミ……」
高嶺奏を見つけた時と同じトーンで呼びかけたものの、堪えた。
妖艶で煌びやかなオーラは失われ、表情が以前よりも柔和に変化したように見えるけれど。遠目に映る彼の女は、間違いなく『glissando』の看板を張っていたミサトだった。
さらに目を疑ったのは、スレンダーだった彼女のお腹が丸く膨らみ……明らかにマタニティの装いをしていたこと。そして隣を並んで歩くのは、かつてミサトの上得意客であり駆け落ちと称して共に消えた━━野島だった。
*
「帰ろうか……」
【本日の演奏時間は終了いたしました】
楽器店のスタッフによって立て看板の書き文字が変えられた後も、高嶺奏は展示ピアノを眺め続けていた。教えるまでもなく、彼も当然、ミサトと野島の存在に気付いていた。
二人仲良くベビー用品売り場のショップバッグを抱えて歩く様子から、ミサトが身ごもっている子どもの父親は野島で間違いないだろう。
ミサトも野島も、既婚者だった。共に離婚をして晴れて夫婦になったのか、内縁関係のままであるのかは計り知れないけれど……。
「幸せそうだったね」
ポツリと漏れたサチの言葉に、仏頂面の高嶺奏もコックリと頷いた。
━━好きだった? ミサトさんのこと。
尋ねかけて愚問だと思い直し、口をつぐんだ。
そのまま『glissando』で従事し続けたなら、ミサトは確実に采配を振るえる立場にまで上り詰めたはずだ。そのチャンスを棒に振ってまで、散々見かける『ショッピングモールで子どもをなだめすかし歩く母親』になってしまうのか━━と。
サチはサチで、仏頂面を決めたまま。
「帰ろう」
鳴らなくなった亡霊のようなピアノを背に岩のように動こうとしない高嶺奏の手を引いて、ショッピングモールを後にした。
本当なら、このまま各々で帰宅するはず……だった。
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