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「君が噂のカノンちゃん?」
開口一番。ミサトの太客である野島から、冷やかすように出迎えられた。
「そう、パッヘルベルの『カノン』ちゃん。野島さんはね、クラシック音楽雑誌の編集長をされてるの」
戯れを制するように、ミサトは野島の腕に自身の腕を絡めた。デコルテが大きく開いたドレスの中で、豊満な胸がくっきりとした谷間を見せつける。
「名前の由来は? ピアノを習ってたとか?」
「いえ、ピアノを習ったことはないです」
野島から話題を振られたというのに、『カノン』は一瞬で会話を終わらせてしまった。シラケた空気が流れかけたところで、ミサトがポーチから取り出した小さなメモに何やら走り書きを始める。再び素早く左腕を野島に絡めると、空いた右手を掲げて黒服を呼び寄せた。
「奏君に」
「かしこまりました」
メモを受け取った黒服は、従順な郵便屋のごとくグランドピアノ前で佇む高嶺奏へと手渡す。ミサトの走り書きを三秒ほど眺めたピアニストは、ためらうことなく流暢な演奏を始めた。
「うわ、教授の『エナジーフロー』!」
イントロが始まるや、野島が歓喜の声を上げる。
「『すべての疲れている人へ』ですよね。今日もお疲れ様です、野島さん」
「分かってるねぇ、ミサトちゃんは。さすが、僕の【推し】』だねぇ」
坂本龍一の名曲が流れる店内は一時静まり返るも、本日来店の客層にはダイレクトに響いたのか、完奏と共に拍手喝采に包まれた。
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