5人が本棚に入れています
本棚に追加
*
「先程は、すみませんでした」
就業後の更衣室で、ミサトが私服に着替え終え帰りかけたタイミングを見計らい、サチは頭を下げた。
「え、何が?」
「野島さんの席で……」
「ああ、全然!」
ホステス時の衣装とは打って変わってラフなトレーナーにデニムパンツ姿のミサトは、声色までハキハキとした少年のように変化した。
「野島さんね。悪い人じゃないんだけど、顔色に出やすい人なの。単純だから、機嫌も取りやすいんだけどね」
朗らかに笑うミサトが勢いよく扉を開いた先で、偶然にも男子更衣室から現れた『雑用係兼ピアニスト』である高嶺奏と鉢合わせた形になった。
「奏君、今日もありがとう!」
「何が」
「『エナジーフロー』!」
「ああ……」
━━あれ、喋ってる。
園生猛士から聞いた通り、就業中の申し送りはおろか「おはよう」も「お疲れ様」も発したことのない高嶺奏が……。
「お疲れ様でした!」と手を振り、小走りで立ち去るミサトの背中へ向けて「おつ」と小さくつぶやき。遙か異国へ旅立つ恋人を見送る男のように、名残惜しそうにその後ろ姿をいつまでも見届けていた。刈り上げ気味のもみあげ脇から覗く両耳を真っ赤に染めながら。
頭を下げて目の前を通りすぎる『カノン』の存在など、まるで眼中にない様子で。
『おいで、カノン』
━━夢の中では、呼んでくれたのにね。
従業員通用口を早足で通りながら、心の内で不貞腐れてみた。
碓氷幸が勝手に見た夢など、彼が知る由もないのに。
最初のコメントを投稿しよう!