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 今日は夏休み前日、つまり終業式だった。学校は二学期生だから成績表は夏休み明けにくる。でもこの間やったテストは今日返されて……。タコの形をしたコンクリ製の滑り台が名前にもなっているこの公園で隆文はそのテスト用紙をひろげていた。タコの胴体を貫く土管でできたトンネルのなかで。 ランドセルから筆箱を取り出して、「よし」と意気込んだ時、 「何やってんの?」 と声をかけられ、隆文は「ウワッ」とコンクリの天井に頭をぶつけてしまった。 「痛たた……」 と頭頂部をさすりながら土管の出口を見ると、体を折り曲げてこっちをのぞき込んでいるのはクラスメイトで幼馴染の畑中麻理だった。 「急に声かけて来んな、バカ麻理」  涙目になった隆文が抗議すると、ペロッと舌を出した麻理はランドセルをおろして土管の中に入ってきた。 「バカなんて失礼だなぁ。私、隆文より成績良いよ」  隣にきた麻理がピタッと体をくっつけて隆文の手元を見る。隆文はサッとこぶし一個分横に動いて彼女と距離を取る。 「見るなって」 隆文はテスト用紙を麻理とは反対側に持つ。すると 「なんで隠すのよ」 と麻理が隆文の手元を覗き込んだ。そして、 「あっ」 と声を上げる。 「すごい、もしかして百点!」 思わす大声を出した麻理の声が土管の壁に当たって反響する。隆文は眉をしかめるとテスト用紙を握りしめ、さっさと反対側から出る。  さっき麻理がしたみたいに滑り台の近くに放っていた自分のランドセルを背負い直す。 「俺、もう帰る」  不機嫌な顔でさっさと言ってしまった隆文を見送って、麻理は「あーあ」とつぶやいた。 「兄弟が優秀すぎると大変だよね。あいつ絶対若ハゲになると思う」  十数分後、小五にして幼馴染から若ハゲになる未来を予言された隆文は、 「ただいまー」 と家の玄関を開けていた。 家に誰もいなくても「ただいま」をいうのが隆文の家の決まりだ。  両親は共働きで子供の下校時間に家にいることが少ないから、そんな親の留守を狙った悪い人を牽制するためと言われてやっている。蹴るように靴を脱いで玄関を上がった隆文はリビングのテーブルに、握りしめすぎてくしゃくしゃになってしまったテスト用紙を広げて唾をごくりと飲み込んだ。  隆文は筆箱から消しゴムを取り出した。テスト用紙の右上、名前の欄に消しゴムを当てようとした時……。 「あら、おかえり隆文。何してるの?」 隆文はギョッと振り返った。 「か、母さん? なんで帰ってるの?」 「今日、清文の進路相談なのよ。本当は先週だったのに、先生の体調が悪くて。だから仕方なしに半休取って帰ってきたのよ。あらどうしたの? それ、テスト?」 と聞かれて、隆文はテーブルと母の間にさっと体を滑り込ませた。  テーブルについた手で名前の欄を隠しながら、 「う、うん。まぁね……」 とごまかす。隆文の母の依子は、 「もうこんな時間。母さん、中学校に行ってくるから、後でそのテスト見せるのよ!」 と言いながらもう体は玄関に向かっている。 「わかってるよ」 「点数低かったら、お小遣いのボーナスは無しだからね!」  すっかりリビングから姿の見えなくなった依子の慌ただしく靴を履く音に、バタンと玄関がしまった音が聞こえてきた。耳をそば立てていた隆文は「はぁぁー……」と息を吐くと床にへたり込んだ。  隆文には二人の兄がいる。一人は今年高校一年の明文。もう一人は中三の清文。そして小六の隆文が一番下だ。二人の兄は勉強が良くできて明文は高校の授業料を免除されるくらいだし、清文は将来医者になると言ってもう勉強中だ。母は優秀な兄二人に夢中で、どちらかというとわんぱくで、暇があれば友達と外でサッカーをしてどろんこで帰ってくる隆文には厳しい目を向けている。去年は明文が高校受験でギスギスしていた。(いくら成績が良くても心配なんだそうだ)今年は清文が受験だから、家の中にはまた、見えない緊張感がピンと張っている。  隆文はサッカーとゲームに夢中な毎日を送っている。何かにつけて「勉強しないと幸せになれないわよ」と言ってくる母親にうんざりしているが、家事と仕事に全速力の母に感謝していないわけではない。  親がいなければ生きていけない子供だと言うことは自分でもよく分かっている。  隆文が欲しがっているゲームソフトの発売日まであと三日に迫っている。その日のために小遣いを貯めてきたけれど、やっぱりあと少し足りなくて(今回は買えないかも)と半分諦めかけていた。でも、「もうすぐ夏休みだし、今度のテストがよかったら臨時ボーナスにお小遣いをあげるね」という母のひと言で希望がつながった。 長い休みの期間を兄の受験に気を遣いながらやっていける自信が隆文にはなかった。自分が途中でキレてしまい、家族から失望されることを恐れていた。 でもゲームがあればいい気晴らしになるだろう。家の中、ひとり落ちこぼれの息子として……家族の誰かがそう言ったわけじゃないけど……気まずい思いをしている隆文にとっては新しいゲームができるかどうかはすごい重要事項なのだ。  母親が行ってしまってから、隆文はそわそわとテーブルの周りを歩き回った。  そして立ち止まると、もう一度消しゴムを手にする。テーブルの上に置いたテストに顔を近づけた時……。 ――ピンポーン。 と家の玄関のチャイムが鳴った。 「なんだよ!」 パッと顔を上げた隆文が壁にかかるドアホンをのぞくと、画面の向こうに麻理が立っている。  麻理は公園で隆文と話した後、バタバタと去った彼が落とした体操着の入る巾着を、わざわざ届けに来てくれたのだ。体操着なんて玄関で受け取れば良かったのに、「喉が渇いたからお礼にジュース飲ませて」と言われて麻理を家にあげてしまったことを隆文は今猛烈に後悔している。  リビングに入ってきた麻理は、テーブルの上に広げられたテストを見るとすぐ、 「あ、これ隆文のテストじゃないでしょ」 と、言った。 「だって字が違うもん。いつも蟻が丸まって死んでるみたいな字しか書かないくせに」 「悪かったな、汚い字で。ていうか、そんなに分かるもん?」 と聞いた隆文に、麻理は厳かにうなずいた。 「一目瞭然だよ。まさか名前だけ書き換えれば、おばさんを騙せると思ってないよね?」  隆文は思わず視線を逸らした。 「バーカ、そんなことするわけないじゃん」 と答えた隆文に、 「だよねー」 と麻理は相槌を打った。そんな麻理をチラッと見ると、真顔で見返される。 「分かった。俺が悪かったよ。百点のテストの名前だけ書き換えて自分が満点取ったように見せようとしてた」  隆文が白状すると麻理は「呆れた」と言った。ため息をつかれて隆文は唇を噛み締める。 「これってさ、小林君の答案だよね。どうして持ってるの。まさか!?」 と目を見開いて麻理がこっちを見てくる。隆文は慌てて首を横に振った。 「盗んだんじゃない。たまたま机に入ってたんだ」 「たまたまって、ねぇ……隆文のはどうしたのよ」 「ない」 「ない、じゃないわよ。テストを返された時はどうだったの? 自分のか自分のじゃないかくらい受け取る時に気づくでしょ」  呆れて聞く麻理に隆文は胸を張る。 「その時は俺のだった。点数だって覚えてる」 「何点?」 「六十八点」 「うわー、微妙な点数ぅー」 と麻理が身をよじりながら言う。隆文は、 「バカにして……」 と項垂れて容赦のない幼馴染を恨めしそうに見た。 すると、しゅんとした隆文を見てかわいそうになったのか麻理が優しい口調になって、 「それにしてもおかしいわよね。じゃあ、隆文のテストは小林君が持っているの?」 と聞いてくる。 「知らないけど、そうなんじゃない?」  隆文が投げやりに答えると、麻理はまた大きくため息をついた。 「でもそれって変じゃない?」 「何が変だよ」 「隆文が盗んだんじゃないなら、小林君が隆文のテストを盗ったてことだよね。そして自分のテストを代わりに入れた。小林君、百点なのに、どうしてわざわざ、隆文の低い点数の方を持って行ったの?」 と、首を傾げた麻理を 「堂々と低いって言われると傷つく……これでも頑張ったんだぞ」 「あ、ごめん、ごめん」  全く悪いと思っていない表情で謝る麻理を見て、隆文は(やっぱり家にあげなきゃ良かった)と二度目の後悔をした。
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