過去の傷痕

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過去の傷痕

 傘を胸に抱えたまま、びしょ濡れで玄関のドアを後ろ手にしめた。    谷原さんの手を振りほどいて、どの道を走って家に戻ったのかほとんど覚えていない。    ──僕は未希さんを前から知っている  谷原さんは職業柄、きっと手練手管に長けているはず。  彼の低い声が、頭の中でまたリフレインした。  ──僕なら未希さんの良いセカンドパートナーになれると思う  セカンドパートナー。  家庭を持ちながら、心を通い合える異性と友達以上恋人未満の関係を気付く、もう一人のパートナー。  聞こえはいいけれど、結局男女の関係には変わりない。  渓とその横にいるもう一人の顔が浮かんだ。  私は寂しさを顔に貼り付けた、そんなにも不甲斐ない女に見えたのだろうか。  バカにしないで  羞恥心と嫌悪感が、混ぜこぜになってせり上がってきた。  心を覆っていたシールドがバリバリと音を立てて、ひび割れていく。  跳ね除けたいのに、何故かその隙間に彼の存在が容赦なく入り込んでくる。    このままではいけない。  クローゼットを乱暴に開け、上段の奥に彼の傘を隠そうと手を上げた途端、布の折り目から紙切れが、ひらりと外れて落ちた。    拾い上げると、携帯番号らしき数字が書いてある。  ボールペンで強く走り書きされた文字。  彼の滾るような熱量が筆圧に込められ、また胸が軋んだ。  こんなものもらっても、私にはどうすることもできないのに。    引き千切ろうとしたら、床においた鞄の中でノラの歌声が振動する。渓からだった。    ふぅと深呼吸して、動揺に乱れた顔を手の平で一掃してから、タップする。     「俺だ。今何処にいる?」    珍しく急かすような声だった。  「え、家にいるよ」  自分がさっきまでいた場所を掻き消して、努めて冷静な声で返す。  「そうか」  「どうしたの?」  「いや、それなら良いんだ」  彼の安堵する息がもれた。  なんだか様子がいつもと違う。  「何?」  「あ、いや。さっきの着信は間違いだから気にしないでくれ」  「え? 電話くれてたの?」  「あぁ。でも違ったんだ」  「そう。わかった」  「週明けには帰るから、久しぶりに何処かで飯でも食おう」  「え? あ、うん」  「また連絡する」  彼はまた急いで通話を切る。  画面には、15分ほど前にも着信履歴が残っていた。  わざわざ出張先から渓が、電話をかけてくるなんて。  何か心境の変化でもあったのか。  何処かで飯でも食おうなんて、久しぶりに夫婦らしい会話だった。  けれども、そのあとすぐ掴みようのない虚無感が押し寄せてくる。    どんなに夫婦という形で繋がっていても、彼の心は全く別の場所にある。    このあと彼は、西野さんと過ごすのだ。
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