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彼女は以前私が務めていた、アンティークショップのオーナーだ。
才色兼備を絵に描いたような人で、渓は昔から彼女に憧れていた。
彼と出会った頃、私はよく彼女の事で相談にものっていた。
けれども彼女は何故か、渓を散々その気にさせておいて全く違うタイプの人と結婚してしまった。
ひどく落胆して、ボロ雑巾のように萎れた渓。
とても見ていられなかった。
私はたまたま駅前で見つけた、彼の好きなアメリカンジャズが流れるBARに、毎晩渓を連れ立った。
時間はかかったけれど好きなものに囲まれ、次第に活力を取り戻していく渓。
それから私達はなんとなく付き合い始め、彼の起業をきっかけに結婚した。
でも私は気付いていた。
彼はまだ西野さんのことが好きなことを。
彼女は私達が結婚してすぐ、シングルに戻った。
そして結婚4年目の夏。
私はその決定的な場面に遭遇してしまう。
私はまだその店でパート社員として働いていて、その日は次のシーズンに出店する蚤の市の企画の打ち合わせが入ったと、渓は夕方頃店に向かった。
打ち合わせが長引いているのか、夜になっても帰ってこない彼に差し入れを届けに行くと、バックヤードのソファで声を殺して抱き合う二人を、ドアの隙間から見てしまった。
ガッチリと繋がれた2つの体と、間接照明に照らされたやらしく揺れる影。
渓の背中を這う、彼女の細い指が生々しかった。
私はサンドイッチを詰めたバスケットを落とし、その場から走って逃げた。
真っ白になった頭の中で、目の当たりにした光景が繰り返し映し出される。
足の感覚まで奪われ、道の途中にあった階段を滑り落ちてしまった。
それでも重い体を引きずって、なんとか辿り着いた場所は、渓とよく二人で通っていたあのBARだった。
皮肉にも二人の思い出の曲が流れる中、私はその店で崩れ落ちるように意識を失った。
下腹部を引き千切られるような激しい痛みと、太腿の内側を流れる赤い血。
私はその夜、ようやく授かった第1子を死産してしまった。
妊娠8ヶ月。
下腹部に大きく縦に入った手術の痕は、今もくっきりと残っている。
その時、不思議と一滴も涙が出てこなかった。
ショックがあまりにも強過ぎると、人って泣けないものなのだろうか。
小さな命と一緒に、感情まで流れ出てしまったのかもしれない。
こんなひどい仕打ちをされても、悲しみや怒りすらも湧いてこない。
自分がひどく残酷に思えた。
けれど空っぽになった腹部に触れた時、ついさっきまで動いていた命が、本当になくなってしまったことを実感する。
途端に寄辺のない不安と、孤独感が押し寄せてきた。
これから私は、渓というたった一人の家族まで失うのかもしれないのだと。
ずっとずっと焦がれていた家族の温もり。
私は心と体に一生傷を負っても、渓を見限ることができなかった。
あれから渓は西野さんとは別れたと言っていたけれど、関係は完全に切れないだろうと思った。
彼女は渓にとって今も、無くてはならないビジネスパートナーだから。
彼は命の手綱でもある顧客管理の全てを、彼女に任せていた。
オークの床に舞い落ちた、谷原さんのメモを拾い上げる。
不意に思い出した過去を遠くに押しやるように、彼の文字に目を眇める。
それから私は、androidカバーの内ポケットにそっとそれを挟んで綴じた。
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