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「起きているのか?」
背中で夫の掠れた声がした。
太い腕が私の冷えた背中を包み込むと、細い脇をすり抜けた手が無作為に柔らかい2つの膨らみを掴む。
「う、ん‥‥今起きたとこ」
微かに声が揺らいだのは別の理由。夫がそれに気付いていないことを願った。
指先で心の奥を探られる前に、なるべくやさしく彼の手を解くと、濃厚な夢の続きから這い出るように夫の腕の中へ戻る。
もう何年にも渡って滲み付いた安定した匂い。
「おはよう。朝ごはん、甘いスクランブルエッグでいい?」
「あぁ、頼む」
夫は眠気眼の乾いた唇で、私の額に音を立てて口付けた。
灰色の凪いだシーツの海から、腕を伸ばし広げ落ちた服を拾い上げると、大きな腕の中から出て行く。
「未希‥‥」
どこか寂しげな声が背中に触れる。
振り向くと、彼は私の体の古傷を見つめている。さりげなくその場所を服で隠した。
「ん?」
「あ、いや‥‥そうだな、いつもより甘めにしてくれ。コーヒーは先にほしい」
「わかった。準備するね」
何か物言いたげに夫が私を見ていた。
気付かないフリをして、いつもよりやさしい声で返すと、私はベッドに彼を残して部屋を出た。
ロングTシャツを被り、ストンと体に落とす。
キッチンカウンターのカフェマシンに水を注ぎ、カプセルと夫のマグカップをセットする。
ガラスボウルに多めのブラウンシュガーと卵を割り入れ、いつもの日常に戻った自分ごと一緒にかき混ぜる。
横長のリビングの窓越しの向こうに目を移した。
高台にあるマンションの5階。
眼下に広がるまだ眠そうな波の上に、白い光の粒が瞬いている。
光の届かない深海のずっとずっと底に沈めたはずでも、甘い記憶とやらは儚い泡ぶくのように軽く、すぐに心の水面に浮上したがる。
そう簡単には忘れることを許してくれないのは、自分に嘘をついている罰だ。
ほんの少しだけ。何十年という人生の長さに比べれば、ほんの一瞬に過ぎない時間だったはずなのに。
銀色のカクテルシェイカーを振る靭やかな指先と、伏せられた睫毛の奥の冴えた瞳。
谷原響。
私は夫ではない、一人の男を忘れずにいる。
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