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私はそっと店を抜け出して、画面をタップする。
「渓?」
「もしもしぃ?」
語尾が幼く不安定に上がった聞き慣れない声が、耳にピッタリ張り付く。
「も、もしもし?」
「だぁれぇ?」
明らかに子供の声。渓の商談相手の子供だろうか。彼は時おり、間を持たせるのにYouTubeを見せる時がある。
腕時計を見ると午後8時。珍しい時間だった。
その子はご機嫌の様子で、受話器の向こうでフンフン鼻歌を歌い出す。
しばらく聞いてあげていると、またすぐに上機嫌な声が返ってきた。
「おねぇさん、だぁれ?」
「未希っていうの。あなたはだぁれ?」
「あたしは、ユナだよぉ」
「ユナちゃんて言うんだ。かわいい名前だね。ママはお話し中かな?」
「ママはねぇ、今ハンバーグ作ってるぅ」
ハンバーグ?商談中に客が食事を作るなんて、とても不自然に思えた。
次の瞬間、受話器の奥から被さる声に耳を疑う。
「ユナ、駄目よ。またパパのスマホで遊んじゃ」
ハキハキとした聞き覚えのある声。すぐに西野さんだとわかった。
けれど、その声よりも私が硬直したのは、彼女の最後の言葉だった。
パパのスマホ。
えっどういうこと?
全く腑に落ちない状況に、溝落ちが不快に震え出す。
私は可能な限り落ち着いた声で、そのまますぐに訊き返した。
「ユナちゃんて幾つ?」
「この前、6さいになったの」
「そう。ユナちゃんのパパってなんてお名前?」
ユナちゃんは、さらに上機嫌になって得意気に教えてくれた。
「ケイだよぉ。ママと一緒にね、がいこくのおさらを売ってるの」
「ユナっ!!」
彼女のすぐ傍で、西野さんが金切り声を上げた。
どうやら、ユナちゃんと話している相手がやっと私だと気付いたようだ。
「ママに返しなさい!」
「やだぁ!」
スマホを取り合っているのか、何かが擦れ合う音が生々しく耳を弄る。
最後に、ママだめぇ!とユナちゃんが泣き出すと、通話は突然切られた。
──ツーツーツー
繰り返されるビジトーンに、耳の奥がひどく軋む。
途方に暮れる私を、まるで嘲笑うかのように聞こえた。
渓と西野さんとの間に子供がいたなんて、私は知らなかった。
ユナちゃんは6歳。
死産していなければ、私の子供もそれくらいの年齢になる。
ユナちゃんはあの時の子なの?
──さっきの着信は、間違いだから気にしないでくれ
急かすような彼の声が、何度も木霊する。
出張先からの渓の着信履歴は、きっとユナちゃんが残したもの。
あの時、渓はユナちゃんの証拠を私に必死に隠そうとしていた。
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