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衝動
店に戻ると、しのぶさんとあさちゃんは既に調停の話題から、ネイルの話題に変わっていた。
互いの指先を見せ合いながら、2人は私の顔を見るなり驚く。
「ちょっと未希ちゃん、どうしちゃったのよ。真っ青な顔して。何かわるい知らせだったの?」
「未希さん、大丈夫? さっきはごめんなさい。私達、熱くなり過ぎちゃって」
私は二人の声にうまく反応できない。
心は今すぐ叫び出したいのに、頭はどんどん冷静になろうとする。
反発し合う感情で、体が真っ二つに分断されそうだった。
「ごめん。私、先に帰るわ」
店の奥で休むよう、しのぶさんとあさちゃんが気遣ってくれるものの、私はその手を強引に振り払い、鞄を抱いて店を飛び出した。
「未希さん!」
背中であさちゃんの声がしても、私はもう振り向くこともできなかった。
全てのことから逃げるように、私は夜の街をあてどなく無我夢中で駆けた。
ひしめき合う猥雑な店の明かりが、ショックに引き攣った目の縁をチカチカと照らす。
渓と私の関係は、もうとっくの昔に破綻していた。
彼は別の場所で家族を作り、すでに私の知らない人生を生きている。
私との生活は過去の償いのつもりだったの?
──俺達は最後まで添い遂げような
添い遂げるって何?
どんなに夫婦の欠片を取り繕って、彼にその形を乞いても、結局ずっとずっと何年も私は一人ぼっちだった。
不意に、ポツポツと水滴が額に落ちる。
無情にも私の行く手を遮るように雨が降り落ちてきた。
潮風を含んだぬるい雫は、次第に水量を増し容赦なく髪と肩を打ち付け始める。
水を吸い込んでいく服が、重く体に張り付いても私は構わなかった。
もう何もかも、どうだっていい。
今すぐここから消えてなくなりたい。
自虐的な言葉ばかりが、のべつ幕無し浮かんでくる。
このまま雨に波立つ漆黒の海に、今すぐ飛び込んでしまいたい。
そんな衝動に駆られながらも、結局私が辿り着いた場所はメレンダの二階の部屋の前だった。
もうずっと鞄の中で、Androidが繰り返し振動している。
渓、あさちゃん、しのぶさんが私を呼んでいる。
お願いだから、私にもう構わないで。
何故この場所に来てしまったのか、自分でもよくわからない。
ただ今は、良くも悪くも自分の自由奪う全ての事から逃れたかった。
メレンダの洒落た外装とは違う寂れた二階。
ドアのすぐ横には、色褪せた赤い木製のポストが掛かってある。
──この店の2階のポストに入れておいてくれれば良い。そこは僕の部屋だから
彼の折りたたみ傘は、いつも鞄に忍ばせてあった。
彼は今、この部屋にいるのだろうか。
ポストの隣には、キッチンの棚が透けた大きなくもりガラスの窓がある。
部屋の中から微かに灯る明かりが、ぼんやりもれていた。
古い型式のチャイムのボタンにおもわず指を掛けるも、押す勇気もなくためらう。
濡れそぼった髪や服からはポタポタと水滴が落ち、コンクリートの足元に、幾つも水玉のシミをつくった。
徐に鞄からandroidを取り出すと、カバーの内ポケットからあのメモを取り出した。
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