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彼の温もりの中で
── 谷原響 090・・・・
考えるよりも先に、指先はその番号を押していた。
画面にそれが大きく表示されると、私は大きく息を吸い込み通話ボタンをタップする。
──トゥルルル トゥルルル
androidを耳に押し当て、湿った手でギュッと握りしめた。
彼を呼び出す音が、耳の中をけたたましく打ち鳴らす。
──お願い出ないで。このまま出ないで。
行動に一致しない、もう一人の自分が叫んでいた。
「もしもし?」
心の準備が整う間もなく、すぐに彼の声が飛び込んで来た。
電話を待ち受けていたような焦りを含んだ声。耳を介さずダイレクトに心臓に届き、ぐらりと大きく視界が揺らぐ。
目頭が熱くなると、浮き出た水膜がみるみる膨らみ始め、私は言葉に詰まった。
「っ....」
「もしもし?」
「....」
「....未希さん?」
見知らぬ番号と無言通話にもかかわらず、すぐに私だと認識する彼に胸が熱くなった。
「た、谷原さ....」
涙が頬を流れ落ち、声がくぐもる。
受話器の向こうで、彼のホッとしたような細い息がもれた。
「未希さん、無事で良かった。今、しのぶさんから連絡があったんです」
「ごめんなさい‥‥私」
共用廊下の屋根を打つ雨音が強くなり、心許ない私の声を掻き消してしまう。
「未希さん? 今どこですか?」
「え..」
「迎えに行きます。どこにいるか教えてください」
こんな状況であなたの部屋の前にいるなんて、とても言えない。
不意に少し離れた場所から、救急車のサイレンが鳴り出した。
雨の繁華街の湿った空気を割いて、どんどんそれは近付いてくる。
サイレンの音は、まるで私はここにいると強く主張するかのようだった。
「あ、あの私‥‥」
「しっ‥‥待って」
彼は息を潜め、サイレンの音に集中する。
耳元をかすめていく音と受話器から漏れ聞こえる音は、次第に大きく重なり合ってドアを隔てた私達を通り過ぎていく。
今度は彼の切ないため息がもれ、すぐに通話が切られた。
部屋の奥から近付いてくる彼の気配。
目の前のドアノブがカチャリと回り、覚悟も何も出来ていない私はどうすることもできず、ただその場に立ち尽くす。
静かにドアが開き、彼の背中越しにかかる僅かな部屋の明かりが、薄暗い廊下と私を包む。
俯いた視線の先に彼の素足を見つけ、顔を上げると、逆光に隠れた涼し気な目許がなんとなく緩んだのがわかった。
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