彼の温もりの中で

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 「やっぱりここにいた」  「谷原さん....」  「びしょ濡れじゃないですか。とにかく中に入って」   彼はドアを背中で留め、腕を伸ばし濡れて冷たくなった私の背中に手を触れる。  胸の奥がまた強く軋んだ。  その温もりは張り直したはずの心のシールドに、また大きな亀裂を作る。  「待って。違うの」    私は咄嗟に彼を遮った。  このまま彼に寄りかかってしまえば、もう後には戻れなくまってしまう。  私は、鞄から彼の折りたたみ傘を取り出した。  「私、傘を返しに来ただけだから」  「‥‥」  彼は黙って、またあの時の困ったような顔をする。      「ずっと借りたままで、ごめんなさい」  「そんなことは良いんだ」  彼は傘を受け取ろうとしない。  私はそれでも濡れそぼった手で、それを差し出す。  「ありがとう。返すね」  「本当にそれだけですか?」    彼は畳み掛けるように、私の顔を覗き込む。  心を見透かされたくなくて、私は彼の瞳を見つめ返せない。    「そう‥‥それだけ」  私は小さく頷く。  彼は呆れたため息を吐いた。  「‥‥なら、どうして泣いているの?」  今度こそ誤魔化しようのない核心を突いてきた。    「雨が....」  「....」  「雨が、降っていたから‥‥」  まるで子供じみた茶番劇だと笑われても、それが私の今思い付く精一杯。  彼は切なく眉間を歪ませると、何も言わず私を強く引き寄せ、着崩した白シャツの腕の中に閉じ込めた。  はっと息をのむ私の緩んだ手からは、彼の折りたたみ傘が滑り落ちていった。  開いたシャツの胸元から彼の体温に混じったフレグランスが漂い、酔いがまわったように頭がクラクラする。     切なくほろ苦いモヒートの匂い。  甘い媚薬に引き寄せられ、羽根をもぎ取られた蝶のように、私はもう飛び立つこともできない。
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