沈んでいくミントの葉

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沈んでいくミントの葉

 彼の広い背中に手を這わせる。  額にかかる彼の熱い息。  もうそれだけで体中が熱を帯びていく。  彼の腕の強さが増していくほどに、息すらも苦しくて。  混濁する意識を逃そうと顔を上げたら、食らいつくように彼の唇が、無防備な私の唇を塞いだ。    頭の奥が甘くしびれる。  体中の力を抜き取られたように、背中に回した手もスルリと落ちていく。  崩れ落ちる膝よりも先に彼の腕は私の腰を捉え抱き、開きかけた唇に舌先を捩じ込まれる。  蜜を隈なく絡め取る蝶の触覚のように、彼は言葉よりもリアルにその熱量を伝えてくる。  私の中で燻っているもの全てを、まるで知り尽くしているかのようだった。  もう彼を拒む理由なんて、頭の片隅にも残っていない。  昂ぶる感情のままに雨音に紛れて私達は、壁にもたれ掛かって唇を強く食み合う。    閉じた瞼の向こうで、玄関のドアが閉まる音がした。  彼は後ろ手に鍵をかけると、私を両腕に抱きかかえる。  レペットのトゥシューズが、つま先から外れて落ちた。  あんなに彼を拒んでいたくせに、今は不思議なくらいに高揚感にふるえている。    自分だけは真っ当な妻でいよう。  どんなに惨めでも、私は渓を失いたくなかった。  灯台の明かりを真っ直ぐに照らしていれば、彼はきっと戻ってくると信じていた。  けれど、彼のいる方角に明かりはずっと届いていなかった。  セオリーからどんどん外れていく私。  不安や恐怖までも、部屋の隅に灯る間接照明の影に消えていく。    渓、西野さん、ユナちゃん。  消えてしまった小さな命。    過去のぜんぶを、ずっとずっと遠い場所に押しやって、私はミントの葉のように、くったりと冷たく澄んだモヒートの海に沈んでいく。  メレンダのカウンター越しに見た、あの冴えた瞳が吸い寄せられるように私を見つめている。    大きな手の平でやさしく頬を撫でられ、泣き出しそうになる。  私は、ずっとこの温もりに焦がれていたのかもしれない。  頬に押し付けるように両手をそれに重ねた。  彼の唇と手はやさしく順を追う。  カクテルを作る時のように。    靭やかな指先を薄い布と肌の間に滑らせ、やわらかいふくらみを探し当てると、そっと手の平で包み込む。  彼の目に晒された肌が、飴色の明かりに染まり、火照った舌で硬く閉じた蕾を解かれ、柔い快感がさざ波のように押し寄せた。   アルコールの混じった気怠い息と、肌を這う温かい指の腹。    開いたシャツから覗く彼のなだらかな筋肉の筋に指を滑らせ、私は凪いだシーツの海に身も心も投げ出した。  彼の体温が泥濘んだ皮膜を割り拓き、体の奥へと突き進む時、何もかもが消えてなくなった。  ただそこにあるのは、揺れる波の上でオールを漕ぐ2つの体。  引き締まった背中が強くうねり、甘い汗で吸い付き合う肌。  快感の階で視界が白く弾けるたび、彼の耳元で何度も衝動を放つ。  まるで私は、彼がいつも両手に抱える銀の卵(カクテルシェイカー)になったようで、狂おしいほどに幸せだった。
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