58人が本棚に入れています
本棚に追加
エピローグ
あの人も今、目を覚ましている頃だろうか?
ベッドサイドのカーテンの隙間から僅かに覗く、薄ら白い空を見上げていた。
5年経った今でも、夏のひざしが降りそそぐ静かな朝に包まれるたび、彼の面影を探してしまう。
背中を包むやわらかな体温。
肌を這う熱い手の平。
耳元をかすめるアルコールの混じった気怠い息。
自分が誰なのかすら忘れるくらい、あの人は確かに私の中にいた。
渓を受け入れたあとに迎える朝は、きまって私の心と体に刻印された、あの人の感覚が蘇ってくる。
「起きているのか?」
背中で渓の掠れた声がした。
太い腕が私の冷えた背中を包み込むと、細い脇をすり抜けた手が無作為に柔らかい2つの膨らみを掴む。
「う、ん‥‥今起きたとこ」
微かに声が揺らいだのは別の理由。
渓がそれに気付いていないことを願った。
指先で心の奥を探られる前に、なるべくやさしくその手を解くと、濃厚な夢の続きから這い出るように彼の腕の中へ戻る。
もう何年にも渡って滲み付いた安定した匂い。
「おはよう。朝ごはん、甘いスクランブルエッグでいい?」
「あぁ、頼む」
渓は眠気眼の乾いた唇で、私の額に音を立てて口付けた。
灰色の凪いだシーツの海から腕を伸ばし、広げ落ちた服を拾い上げると、大きな腕の中から出て行く。
「未希‥‥」
どこか寂しげな声が背中に触れる。
振り向くと、彼は私の体の古傷を見つめている。さりげなくその場所を服で隠した。
「ん?」
「あ、いや‥‥そうだな、いつもより甘めにしてくれ。コーヒーは先にほしい」
「わかった。準備するね」
何か物言いたげに渓が私を見ていた。
彼はユナちゃんを認知したあと、西野さんとはビジネスパートナーの関係を解消した。
私は気付かないフリをして、いつもよりやさしい声で返すと、ベッドに彼を残して部屋を出る。
ロングTシャツを被り、ストンと体に落とす。
キッチンカウンターのカフェマシンに水を注ぎ、カプセルと渓のマグカップをセットする。
ガラスボウルに多めのブラウンシュガーと卵を割り入れ、いつもの日常に戻った自分ごと一緒にかき混ぜる。
いつもの日常に戻っても、私はもう孤独感に苛まれることはなくなった。
銀色のカクテルシェイカーを振る靭やかな指先と、伏せられた睫毛の奥の冴えた瞳。
ほんの少しだけ。
何十年という人生の長さに比べれば、ほんの一瞬に過ぎない時間。
彼に愛されたあの数日間を今も忘れない。
横長リビングの窓越しの向こう、ハンギングバスケットのミントの葉が、風に青々と揺れている。
甘いスクランブルエッグとコーヒーで渓を送り出したあと、白く煌く海を見つめながらメレンダに届いた私宛の手紙に、ペーパーナイフを入れる。
メルボルンから届いたエアーメール。
差出人は谷原響。
おわり
最初のコメントを投稿しよう!