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仕事から帰り、玄関のドアを開けると彼女の姿がすぐに見えた。時刻は午後九時を過ぎている。
「ただいま」と言う。すると、「おかえり」と確かに返ってくる。でも、それがなぜだか気持ちのいいものには感じなかった。
藍華は最近、近所にあるジムに出かけることが多い。そのためか、俺が帰宅したときにも服装はランニングウェアを着用していた。黒のスパッツに薄いピンクのTシャツ。首元にはタオルが巻かれ、もうすぐにでも出て行こうとする気配すらあった。
「今から行くの?」
「うん、行こうかなって思ってたとこ。尚樹はどうする?」
「いや、俺はまだ飯食ってねーし。腹減ってんのに走るわけないじゃん」
「そっか」
『今から帰るわ』と連絡をしたはずなのに、彼女はまだ気づいていないらしい。電車の中で何度か見たスマホに苛立ちを募らせていた。
「飯はあんの?」
「うんあるよ。食べる、よね?」
「当たり前だろ。腹減ってるっつってんじゃん」
リビングのソファへ座り、鞄を床に置く。
藍華は小さくため息を吐いて立ち上がり、キッチンへと向かった。
1DK。あまり広くはないこの部屋に同棲をし始めてもう二年が経過している。三十の俺と二十七の彼女。
売れない放送作家はとにかく金がない。毎日のように企画書を考え、寝る間を惜しんでネタを絞り出す。芸人との打ち合わせや、スタッフとの会議で時間だけが経過していく。帰宅が深夜や朝方になることも多く、大抵の場合は彼女が先に寝ている。たまたま早く帰って来られた日に限って、こいつは一人でジムに出かけるのだという。その冷たさに苛立ちはますます加速していった。
テーブルに出された食事は麻婆豆腐と餃子。仕事の終わりのビールはもちろんだ。ひと口喉を潤すとアルコールが全身に染み渡っていくのがわかる。
「ねえ」
藍華が壁にもたれながらなぜか俺を睨みつけていた。
「なに?」
「たばこ吸ったでしょ」
「は?」
彼女はたばこが嫌いだ。俺のことを支えるから、たばこだけはやめてほしいと何度も言われた。二十歳の頃から吸い続けた喫煙習慣はそう簡単にやめられるわけはない。しかも俺は作家だ。物事を考えるときにたばことコーヒーは必須だ。
議論を重ねた結果、俺はこの部屋でたばこを吸うことをやめるという条件で禁煙を免れたのだが、彼女がいないときについ一本だけ吸ってしまったことがある。それを藍華はあざとく見つけたらしい。吸い殻は残してはいなかったはずなのに。
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