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鏡の前
鏡の前
鏡の前のわたしはまだまだ、どこから見ても高校生でそれ以上でもそれ以下でもない。
「どした?最近浮かない顔だな、失恋でもしたか?」
顎鬚を嬉しそうに撫でながらトッちゃんが、わたしの髪をどこから切ろうか思案している。
昔風のレトロな柱に囲まれてまるで白雪姫に出てきそうな鏡が四つ並んでいる。漂っている香りはなんだろう、ハーブかなにか。リラックスできる香りだっていつかトッちゃんが言っていた気がする。
「恋もしてないのに失恋なんてできないのとちがう?好きな人できたらトッちゃんに真っ先に言うって約束したの忘れた?」
サラサラとわたしの髪をつまみながらシャシャシャっとハサミを入れる。パラパラと短い髪の毛が床に落ちてゆく。相変わらずの手さばきで感心する。床の幾何学模様がいつの時代かと思う程古臭い。そこにわたしの短い髪は散乱してゆく。
小さい頃からわたしの髪を切っているトッちゃんは、目の前に映る鏡の中のわたしの髪を、どんどん短くカットしていく。鏡の向こう側でむき出しになった自分の顔を眺めながらため息をもらす。
そんな私の顔色を見ながら
「まあね。恋してたらもっとこう、弾けんばかりの表情だったりウキウキ感だったりにじみ出ちゃうだろうからオレにわからない訳もないしな」
自称わたしのパパと言い張って、パパ役をはたそうとしているのかいつでもわたしの事を気にかけてくれている存在ではある。幼い頃に本当の父親を亡くしたわたしにとっては、実の父同様の存在である。優しいなと思うけれど、ウザいって思う事もしばしばで。
「またね、悪夢をみた。ってそれだけなんだけどさ」
わたしはオカルトとかホラーとかそういう映像が大嫌いだ。これは小さい頃からの事で、周りの大人もわたしに怖い映像とか目に入らないようにしてくれているのは、本当に助かっている。
人が死んだり血が流れたり、襲い来る何かにおびえたりそういう緊張する映像は見たくもないし、実際観ると気持ちが悪くなって、そして夜必ずと言っていい、悪夢にうなされるのだ。うなされ具合も小さい頃は相当だったと聞く。夜中に走り出した事もあるとか。
何度も何度も同じ夢をみる。
わたしは悪夢の中で何かを握りしめていて、その鋭利な何かは誰かのお腹のあたりに食い込んでいる。じわじわと血がにじみ、わたしの握りしめた手のひらの中からしたたり落ちてくる。
そうして、場面は変わって薄暗い誰かの家の裏庭の影、わたしは幼い少女で膝を抱えて丸くなっている。胸がドキドキして何かから逃げている。わたしの小さな手は誰かの手に握られていて、その誰かが震える手でわたしの肩を引き寄せ声にならない声で言う。
「大丈夫だよ、もう誰も追いかけてこないよ」
言葉とは裏腹にわたしの中で誰かが追って来ると確信しているのに、わたしはその誰かを安心させようと引きつる笑顔を必死で作り頷く。
手のひらを薄明りに照らしてみると、赤くぬるりとした血で染まっている。幼いわたしは人を殺してしまったと思うと同時にどこか安心している。
不思議な追われる恐怖と安堵感。びっしょりと掻いた汗にまみれて、わたしは目を覚ます。
まだ、ありありと残っている人を刺した感覚。
わたしは誰かを殺した事があるのだろうか?まだ生きてきて十六年間しかない自分の人生を振り返ってみて考える。
「十六年しかたってないのに、なんで悪夢にうなされる事あるのかね?」
わたしの心の中を読んだのか、トッちゃんが言う。
トッちゃんはママの同級生でパパの事も知っていたらしい。ママはパパを失ってから呆然と生きる希望を失くしていた時、肩を叩いて一緒に生きようと言ってくれたのがトッちゃんだったという事だ。パパの記憶はわたしの中には全くと言っていい程無い。
小さい頃からパパは?と聞かれると「トッちゃんがパパなの!」と答えていたという。トッちゃんとママの間にどういう協定が交わされたのかわたしが知るよしもないけれど、二人は結婚という形を取らずお互いの家を行き来する関係で、わたしの世話で長く一緒に生活する時もあったらしく同棲でもなく夫婦でもなく、それでいてわたしにはパパのような存在のトッちゃんだ。
細身の身体をくねらせてうやうやしく、わたしをシャンプー台へ誘う。ここで髪を切ってもらう事は、わたしの中で何かをリセットするような気分になる。儀式ともいえる。
シャンプーしてもらっていると、うとうとしてわたしは悪夢ではない普通の夢をみる。
お花畑を走り回っている夢。楽しくて嬉しい気持ちがいっぱいになって、ふと気がつくとそこはトッちゃんの美容室のお花の模様の天井だ。
トっちゃんはドライヤーをかけると
「さて、お姫様。美しくして差し上げましたよ」
うやうやしく鏡を頭の後ろで広げて後ろ姿をわたしの目の前の鏡に見えるように映してにっこりほほ笑んだ。
白雪姫の絵本の中に出て来るような金色の額縁の中に短い髪になってにっこりと笑う自分の姿が映る。
少しだけ残っていた恐怖の種がすっかりどこかに消えたようでほっとする。わたしの後ろににやけた顔が一緒に映っていて、心の中までマルッとお見通しですよという表情のトッちゃんはムカつくけどただでカットしてもらっているのだからお礼はいわなくちゃいけない。
「ありがとう、素材がいいから美しいわ」
トっちゃんは、ひゃひゃひゃっと下品な笑い方をするとよけいにやけた顔になる。
「夜、怖かったら一緒に寝てやるから安心しな」
わたしを幾つだと思っているのか。
「なわけないでしょ!余計悪夢を見るって!おお、気持ち悪い。じゃね」
瞳にがっかりした感が少し見て取れた。
本心だった?少しだけ可哀想な気持ちが湧いてくるから不思議だ。
「あ、今日わたしが当番でカレーライスだから食べに来てもいいよ」
「お~いくいく。じゃ仕事終わったら行くからオレの分残しておけよ。食べるんじゃね~ぞ」
急に明るい表情は単純だ。実際トッちゃんはわたしの作るカレーは大好物でいつもおかわりをする。
「残しておくってば、カット代だからね」
その時店に女性が入って来ると、全く違った顔と声に変身したトッちゃんになったのは言うまでもない。営業スマイルってやつだな。
「いらっしゃいませ~」
わたしはカレーの材料のことで頭がいっぱいになり、悪夢の事も殺人の記憶もどこかに吹っ飛んでしまっていた。
こうして、わたしの恐怖はいつでも、トッちゃんが吹き飛ばしてくれる幸せにその時は気づいていなかった。
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