第2話 眠らない夜の絡繰り人形(8)

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第2話 眠らない夜の絡繰り人形(8)

 無影灯の光が、天井から注がれていた。影を作らぬ明るい光が、さして広くもない室内に熱く満ちている。シュアンの額から汗がにじみ出て、彼の三白眼を嘲笑うかのように、その脇を不快に流れ落ちた。 「くっ……」  シュアンは腹の底から息を吐いた。煮えくり返るような思いが内臓を渦巻き、湧き立つ血流が血管を浮き立たせる。  この場限り……、今だけは奴に従うべきなのだろうか――。  シュアンの口が、小さく、力なく音を出す。 「待……」 「緋扇さん……!」  それまで脅えるばかりだったミンウェイが、シュアンの袖を掴んだ。力強く引かれた制服の左肩がずり下がる。 「私、お父様のところに行きます。だから、緋扇さんの先輩は……」 「ミンウェイ!」  彼女の言葉の途中で、ローヤンの憤怒の声が割り込んだ。 「君は、こんな男のために私のもとに来るというのか!? 私の〈ベラドンナ〉が、私以外の男のために指一本でも動かすなんて、あってはならないことだろう? そう教えたはずだ!」  嫉妬に歪んだ顔で、ローヤンはシュアンを睨みつけた。視線だけで殺せそうなほどの憎悪が、ほとばしる。 「お父様、私は……、私は、もう……、〈ベラドンナ〉ではありません!」  (つや)を失った、むき出しの声が、悲鳴のように響き渡った。  つかえていた胸の思いを吐き出し、彼女の肩が苦しげに上下していた。ひとつに束ねられた長い髪は、意思を持った生き物のように背中で波打っている。  彼女にとって、父親は幼少時の絶対的な支配者。  それは、天に逆らうにも等しい叫びだった。 「何を言っているんだい? 私の可愛い〈ベラドンナ〉。その豊富な知識も、高度な技術も――そして何より、その美しく完璧な肉体も……。すべて私が与え、磨きあげた。君は私の至高の芸術品だよ」  ミンウェイの体が、雷に打たれたかのように大きく震え、硬直した。その振動は、袖を掴まれたままのシュアンにも伝わり、彼女の恐怖を彼は肌で感じ取った。 「……腐ってやがる……」  シュアンの押し殺した唸り声が響く。 「あんたは本当に、悪魔、だ」  拳銃で撃ち殺したい衝動に駆られるが、その肉体は先輩のものだ。  シュアンは音が鳴るほどに歯噛みした。 「ミンウェイ。あんたが、こいつの言いなりになることはない。俺やあんたが言いなりになったところで、こいつは先輩を殺すだろう――嗤いながら俺の目の前で。そういう人種だ」  八方塞がりの現状。やり場のない怒り。口をついて出る毒の言葉は、ただ自分の無力さを確認しているだけだ。 「こいつは俺を弄んで楽しんでいるだけだ。こいつにとって、俺は玩具で、利用した体は、ただの道具。要らなくなったら片付けると、そう言ってい――た…………?」  そのときシュアンは、自分が言った言葉の中にある『真実』に気づいた。  ローヤンの載せられた台に向かい、大股に近寄る。袖を掴んでいたミンウェイの手が、戸惑うように離れた。  シュアンは、ローヤンの頬をかすめるように、どん、と大きな音を立てて台に手をついた。そして、じっとローヤンの目を見る。悪魔の嘘を見逃さないように――。 「『使った体は役目を終えたら片付けるもの』? ――何故、片付けるんだ?」 「不要だからですよ」  当然だろうと言わんばかりに、ローヤンの中の悪魔が答える。 「ああ、そうだ。あんたにとって『不要』だ」  シュアンは口角を上げ、嗤った。  ローヤンが不快気な顔をする。シュアンの意図が分からず、態度を決め兼ねているようにも見える。シュアンは構わず、そのまま、ゆっくりと続けた。 「だから、万一、あんたの悪事がバレたりしないよう、きっちり『お片付け』しておいたほうが後腐れないってことだよなぁ?」  シュアンは腰をかがめ、台の上のローヤンに息が掛かりそうなほど顔を近づけた。  見知った顔を前に、心がえぐられる。けれど彼は、皮肉げな口調で話しかける。 「ところでさ。役目を終えたあとの『不要』な道具が、元通りに使えるメリットは……あんたには『ない』な? 使い捨ての道具だ、壊れてしまって構わないだろう」  自分の心臓が早鐘を打ち始めたのを、シュアンは感じた。落ち着けと、腹の底から自身に命じる。 「何が言いたいんですか?」  ローヤンが鼻を鳴らす。  シュアンは息を吸って、吐いた。否定してくれと、祈るような気持ちで次の句を告げる。 「つまり――一度、あんたに使われた人間は……元には戻らないんだ」  その瞬間、ローヤンは、くっと口の端を上げ、弓なりに目を細めた。  シュアンの見たこともない表情で、嗤っていた。 「おみそれしました。……見かけによらず、あなたは鋭いようですね」  その返答が、シュアンの心臓を撃ち抜いた。彼は倒れそうになる足をこらえ、感情の動きを目深な制帽の下だけに抑え込む。 「はっ! お褒めにあずかり光栄ですね。――だが、つまりだ。先輩が元に戻らない以上、俺もミンウェイも、あんたに従う義理はまったくないというわけだ」  シュアンは鼻で笑った。そして、背後のミンウェイを振り返る。 「ミンウェイ、こいつに自白剤をぶちこんでやれ。ありったけの情報を吐かせるんだ」 「は、はいっ……」  かすれたミンウェイの声に、「待ってくださいよ」というローヤンの声がかぶる。 「あなたに、この体に使われた技術についてご説明いたしましょう。それを聞けば、あなたは私に協力したくなりますよ」  真実を見抜かれてなお、ローヤンは変わらぬ愉悦の微笑を浮かべていた。
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