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第2話 眠らない夜の絡繰り人形(9)
聞く耳持たぬと、シュアンは背を向ける。しかし悪魔は囁き続けた。
「ああ、自白剤は無駄ですよ。あなた方が欲しい情報に行き着く前に、この体もその巨漢と同じ運命をたどるはずです。――それよりも、私たちは手を組むべきなんですよ」
かすかに笑みの入った、親しげな声でローヤンが言う。
背後を振り返れば、あの醜く歪んだ顔があるのは分かっている。けれど、優しげな声は先輩そのもので、シュアンは苛立ちもあらわに吐き捨てた。
「うるさい。黙れ、蝿野郎」
シュアンの反応があったことに、悪魔は喜色を上げた。
「あなたは『私』を〈蝿〉だと言いいましたね? ――それは半分合っていて、半分間違いです」
「黙れと言っているだろう!」
シュアンは思わず振り返った。振り返ってしまった。
彼の三白眼に飛び込んできたのは、生真面目な先輩の顔だった。
「『私』は〈七つの大罪〉の技術によって、あなたの先輩の体という肉体に、〈蝿〉という精神を入れられた存在です。――〈七つの大罪〉では、こうして作られた者を〈影〉と呼びます。つまり『私』は、あなたの先輩ではありませんが、〈蝿〉とも違う、まったくの別人なのです」
耳を塞がねば……。
シュアンは咄嗟に思ったが、凝り固まったように体が動かなかった。
「あなたの先輩の記憶を〈蝿〉の記憶で上書きした、と言えば伝わるでしょうか。――この肉体は間違いなく、あなたの先輩です。けれど、この体が不要になって片付けられるとき、『私』も一緒に死にます。『私』とあなたの先輩は、文字通り一心同体なのです」
ローヤンは、突き刺すような視線でシュアンを見た。
「『私』は死にたくありません。あなたも、先輩に死んでほしくないでしょう?」
声をつまらせるシュアンに、ローヤンはゆっくりと口の端を上げ、嗤う。
「あなたと『私』が出会ったことは、お互いにとって幸運でした。――手を取り合って〈蝿〉を殺すためにね」
「……ふざけるな」
深い憤りがシュアンを襲った。固く動きを止めていた喉から、つぶれた声が漏れる。三白眼が、かっと見開いた。
「あんたは、ずっと〈蝿〉の指示に従ってきただろう? それが、どの面下げて『手を取り合って〈蝿〉を殺す』だ?」
ローヤンは、ふっと口元をほころばせた。
それは笑んだつもりだったのかもしれない。けれど、あまりの禍々しさに、シュアンの背はぞくりとし、知れず後ずさった。
「『私』は――ああ、正確には『私』と、そこの死体となった男のふたり、ですね――〈蝿〉の〈影〉にされた『私たち』は、『呪い』に支配されているんですよ」
「『呪い』?」
「ええ。便宜上、そう呼んでいるだけですけどね」
ローヤンが思わせぶりに、くすりと嗤う。
「私は先ほど、〈影〉について『元の人間の記憶を、別の人間の記憶で上書きした』と言いましたよね。――つまり、〈七つの大罪〉は『人間の脳内に介入する技術』を持っているのです。そして『書き込む』ものは、『記憶』でなくてもよい。『誰かに逆らってはいけない』というような、『命令』を植え付けることも可能なんですよ」
そう言って、「例えば」と、ローヤンの視線が隣の台の巨漢を示す。
「その男は〈蝿〉の『奴隷』です。〈蝿〉が望むであろう言動を取ります。それが至上の喜びであると錯覚する『呪い』とでも言うべき『命令』が、脳に刻まれているのです」
「――だから、俺がこいつを人質にしても『私のことはどうでもいい』と……」
「そういうことですね。〈影〉の思考は、記憶の元となった〈蝿〉と同じですから、『かゆいところに手が届く』判断ができます。実に都合のよい、便利な駒です」
拘束されていても、かろうじて自由に動かせる首を動かし、ローヤンは巨漢を顎でしゃくった。
「彼は、自白剤によって『〈影〉』と口走りました。鷹刀イーレオも、おそらく〈影〉という存在を知っているでしょう。だから、それ以上、情報を流してはいけないと判断した彼の脳が、血管に対し破裂するよう命令を出したわけです」
「……」
シュアンも、巨漢を見やる。
首まで掛かるような、大きな刀傷を抱えた男だ。どうせろくな人生を送ってこなかったに違いない。しかし、ここまで無残な屍を晒さなければならないほどの悪党だったのか――それは疑問だった。
「そして私にも、『奴隷』の『呪い』が掛けられるはずでした。けれど肉体との相性が悪かったのか、『自我』のようなものが残りました。そのため〈蝿〉は、私には口頭で命令したことへの絶対服従の『呪い』を加えました」
ローヤンの声に陰りが入る。深刻な顔になると、やはりシュアンのよく知る先輩にしか見えなかった。シュアンは、わずかに視線をそらす。
そんなシュアンの心を揺さぶるように、ローヤンは静かに告げた。
「現在、私に課せられた命令は、巨漢の補佐と事態の報告。そして、今夜中に〈蝿〉のいる場所に戻ること。――さもなくば、血管が破裂します」
シュアンは息を呑んだ。
『こいつ』を捕らえたままにしておくだけで、先輩は死ぬ。けれども、逃したところで、先輩が元に戻るわけではない。
自分の為すべき行動を求め、シュアンは目深な制帽の下で、三白眼を忙しなく動かした。
硬質な床には、巨漢の噴き上げた血溜まりが広がっていた。それが、近い未来の先輩の姿と重なり、彼は目を閉じる。眉間に深く皺が寄り、やるせない思いが溜め息となって口から漏れた。
鷹刀イーレオを説き伏せて、ここにやってきたのに。相手は〈七つの大罪〉だと、知っていたのに――何もできないのだろうか……。
「ここまで聞けば、あなたはどうすべきか、もう分かりますよね? ――私と手を組みましょう」
微笑みさえ浮かべ、ローヤンは言った。
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